logbog 旅するように生きる

1993年生まれ。高校生で摂食障害発症。今も自分の心地よい生き方を模索しながら小規模多機能居宅介護施設で作業療法士してます。

THE ABSENCE OF TWO

昨夜、久々に38.5度という高熱を出し、昨日のうちに会社に連絡を取り今日は休みにしてもらった。今日、朝起きると頭痛はあるもののすっかり熱は下がった。

普段、寝る前の夜の数時間しか自宅にいない私は家で1人で安静にしているのがどうも落ち着かないのでこれを書いて心を落ち着かせようと思う。

 

先日、職場のパートさんがお気に入りの写真集を貸してくれた。

 

「THE ABSENCE OF TWO」

その写真集は写真家 吉田亮人さんが従兄弟と祖母を取り続けた中でできた写真集「THE ABSENCE OF TWO」という写真集。

もともと小学校教師をしていた吉田亮人さんは小学校教師を辞め写真家の道を選んだ。写真家として活動し始めた翌年、宮崎に帰省した際に大好きな二人にふとレンズを向けシャッターを切り始め写真を撮り続けた。1928年生まれの祖母、雪見さんと1990年生まれの孫、大輝さんの宮崎の田舎町で繰り返される日常。

 

この写真集を見ていて私は小説を読んでいるようななんだか不思議な感覚になった。

写真1枚1枚には何のコメントもない。写真のあとに書き綴られるエッセイ。

読んでいくうち、写真を見返す度、私は吉田さんという人にも興味を持ち始めた。

吉田さんが取材を受けた記事に写真家になった経緯や思いが書かれていて余計に好きになった。

 

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1928年宮崎県国富町で生まれた雪見さんは物心つく頃から家の手伝いや農家の手伝いをしながら戦前、戦中時代を生き延びた。戦後も日雇いなどをしながら貧しい生活を送ってきた雪見さん。そんな頃、当時何の娯楽もなかった国富町に大衆映画を上映する一座がやってきた。その一座の中の中にいた1人と雪見さんは結婚し旦那さんの仕事を手伝うため宮崎各地を転々としたのち大分県湯平町に移住、その日、その日を暮らしていた。その後、雪見さんの母の介護の為、大分で築いた仕事や生活のすべてを置いて国富町へ帰郷。雪見さんの母が亡くなった後も2人の国富町に住み続けた。2人の子供授かり貧しい生活の中、必死で働き、子供を育て生きてきた雪見さん。

 

一方大輝さんは4人兄弟の3男として宮崎県国富町に生まれ、地元の保育園、小学校、中学校に通い、高校は自転車で毎日片道1時間かけて県内有数の進学校に通い卒業後は看護大学で勉強しながら保健師を目指していた。

大輝さんの家族は雪見さんと同居していたので大輝さんにとって雪見さんは身近な存在で、大輝さんが物心ついた頃にはおばあちゃんである雪見さんの部屋でいつも過ごす程のおばあちゃん子だった。小学校に上がってからは6畳1間の雪見さんの部屋に勉強机をおき本格的に雪見さんと生活し中高もそれが当たり前の光景であった。

 

大輝さんは大学入学してすぐ、雪見さんのもとを離れ大学の近くで1人暮らしを始めた。バイトと勉強で忙しく雪見さんのもとに帰る事は少なくなった。そんな生活を1年間続けた大輝さんは次第に大学から足が遠のくようになった。生活費と学費の為のアルバイト以外はひきこもる生活が続いた後、ある日、自転車とバックパック1つで宮崎を出た。色んなものを引きずりながらもそれを振り払うように自転車をこいで日本各地を1人駆け回った。旅の間、誰からの連絡も受けず、誰にも連絡しなかった大輝さんだがただ1人雪見さんだけには近況を報告していた。お金がつき約2か月で終えた旅の後も大学に足が向くことなく大輝さんは雪見さんの部屋に戻ってきた。

2年ぶりに雪見さんとの生活を再開した頃、大輝さんは同級生たちが大学3年に進級し新し挑戦をしていく姿を横目で見ながら、留年。それでも、少しずつ大学に行きはじめ後れを取り戻した。

そんな年の夏、雪見さんは倒れ腸捻転症で入院した。1か月の入院を経て大輝さんに付き添われ自宅へ戻った。退院後も腹痛が治まらない雪見さんは鎮痛剤をほしがり、薬のおかげで一時的に痛みは治まるが副作用も強く、意識はもうろうとし、体もやせ細りいつ死んでもおかしくない状況で気が強くはきはきと物事を言う雪見さんの姿はどこにもなかった。そんな弱っていく雪見さんの姿を目の当たりにした大輝さんは今まで自分の言葉かりでおばあちゃんのことなんて何にも考えてなかったことに気づいた。そして大輝さんは雪見さんの手となり足となり暮らした。鎮痛剤の服薬を続けることで認知症になったりや体力が奪われていくことを考えた大輝さんは鎮痛剤を隠し服薬をを止めさせた。激しい痛みのあまり「薬を飲ませろ」と怒鳴る雪見さんと負けじと薬を渡さない大輝さんの2人の本気の喧嘩の日々。大輝さんの根気強い看病によりいつ死んでもおかしくないと言われた雪見さんは畑仕事に行けるまで回復した。

 

写真を撮り続けた吉田さんと大輝さんは10個年が離れている。

吉田さんは雪見さんにとって初孫。吉田さんが小4の時に大輝さんは生まれた。吉田さんの両親は中華料理屋を宮崎で営み、両親の仕事が忙しい時はよく雪見さんの家で過ごしていた。雪見さんは孫たちをとてもかわいがっていた。吉田さんが中学になりそのころ入れ替わるようにして幸美さん夫婦は大輝さんの面倒を見始めた。

祖母である雪見さんに育てられた大輝さんはいつしか祖母を支える側に。

 

この写真集は大輝さんと雪見さんしか映っていない。でも大輝さんと雪見さん、吉田さんと雪見さん、大輝さんと吉田さん、この3人で過ごした時間が沢山詰まっている。

何気なく過ぎていく、何でもない日常。でもきっとかけがえのない2度と戻ってこない時間。大輝さんと雪見さんの2人の暮らしに流れる幸せな時間をたくさん感じる写真だった。

 

写真集のエッセイの中で吉田さんは

そう遠くない将来訪れるであろう祖母の死。それをもってこの物語を終えようと思い始めたのはいつの頃だっただろうか。写真家として、1人の孫として、その日が来るまでカメラを向け続け、この何でもない日常を記録し、物語を編もう。

 と決心したことが書かれていた。そう決心して3年。

ある日、「学校いってくるわ」そう雪見さんに声をかけたきり姿を消した大輝さん。

雪見さんは待ち続けた。約1年後、山の中で遺体となって大輝さんは見つかった。

遺書もなく理由は不明のまま。自死だった。

そしてその1年半後、雪見さんは昼寝をすると言って横になったまま永遠の眠りについた。

 

人は有限の時間を生きて死ぬ

吉田さんは取材を受けた記事の中でこの写真集について

従兄弟の自死は一番見てほしいことじゃないんです。それはひとつの事実ではありますが、もっと大切なのはふたりが有限の時間をどう生きたのか、そこにどういう愛があり、関係性があったのか。ふたりの時間を僕自身はしっかり写真で紡ぎたかったし、そこを見てほしかった。

と言っている。

私は今、介護の仕事をしていて、一番楽しいのは色んな人生にかかわれること。

どのじいちゃんばあちゃんの人生の話を聞いても波瀾万丈。そしてそんな話を聞いているとありのままの自分でいいんだと思える。私は「死って怖い」と小さい頃、思っていた。今も思っている。死んだ後のことを考えると怖い。何が待っているかわからない。得体のしれない怖さ。でも人はいつか死を迎える。もしかしたら明日死ぬかもしれない。

 

私の知人は人間には2つの死があると話していた。

1つは個体として消える死。もう1つは世の中の記憶から消える死。

身体は死んじゃっても周りの人の記憶の中には生き続ける。

そう思うとたった1日の死ではなくそれまでの生きている時間にフォーカスを私は当てたい。

 

写真の持つ力

私は過去の写真を見返すのが大好きだ。写真は時間が経ってから見返した時、価値を発揮すると思う。言葉だけでは足りない思い出も蘇る宝箱のような感じ。おぼろげな記憶でなく確かに手に取って感じることが出来る。利用者さんが亡くなった後に遺品を整理してると写真が見つかり見せてもらうことがある。その家族はそのころに戻ったように色んな話を聞かせてくれる。私は今、友人と過ごしていた時に撮った写真をコルクボードいっぱいに貼って部屋に飾っては眺め、時たま思い出に浸っている。これからもこの写真を大事にしたいしいつか家族ができたときにそんな思い出を語れたらしあわせだなあと思う。

 

生きてる意味って

写真集のエッセイの中で大輝さんがなくなった後、雪見さんが

「生きてる意味なんてねぇ。生きてる意味なんてねぇ」とつぶやいている姿が書かれている。

「生きてる意味ってんだろう」

何人かの友達にたまにそう聞かれる。

この写真集のタイトル「THE ABSENCE OF TWO」直訳すると「2人の不在」

大輝さんと祖母がいなくなった後、吉田さんのもとに残った2人の写真。なんでもない2人の日常。いなくなった2人と写真を通して吉田さんが2人と対話し生まれた写真集。

こんな風に写真が残っていたり、語り継がれて生きた証が残り続ける中で新たな大切さに気付けたり失ってから気づくことも多いんだろうなと最近は思う。

この前見た映画の中で

「人生って何かを獲得する事のように思うけど本当は人生って失っていくものなんじゃないかなって思うの。その失い続ける中でそのたびに本当の自分自身を発見していくんじゃないかな」

というセリフがあった。

生きてる意味も人生の正解とかもよくわからない。

大輝さんが亡くなった理由も分からない。

23歳。大輝さんにはまだこれからたくさんの時間があったかもしれない。

でも私が写真集を通してみた大輝さんが生きてきた23年間はとても濃く魅力的な時間に思えた。

 

私は最近毎晩寝る前に聞いている曲の最後の歌詞が大好きだ。

制限時間はあなたのこれからの人生。

解答用紙はあなたのこれからの人生。

答え合わせの時に私はもういない。

だから採点基準はあなたのこれからの人生。

「よーい、はじめ」

 人生まだまだ分からないことだらけだけどマイペースで進んでいこう。

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