logbog 旅するように生きる

1993年生まれ。高校生で摂食障害発症。今も自分の心地よい生き方を模索しながら小規模多機能居宅介護施設で作業療法士してます。

行けば会える

わたしは今、緊急事態宣言が出されている神奈川に住んでいる。
宣言が出るか出ないかくらいから多くのボルダリングジムは閉まっていた。
けれど
わたしが通うジムはいろんな対策を取りながら開いていた。
それでも来るお客さんは減っていて私にとってボルダリングは登ることももちろん楽しいのだけどそこに来るお客さんと話したりすることが楽しくて来ていたのでここ最近は行ってもなんかつまらないと言う感じでボルダリング欲が下がっていた。
仕事が終わって、登って頭の疲れを発散してボルダリング友達と話して心を満たすという生活をしていた私にとってこの満たされる感がなくなってしまった。

それでも最近の唯一の救いは遠距離の彼氏とのメッセージや電話でなんとか満たされている。

そんな行きつけのボルダリングジムが今日ついに営業自粛となり期限がわからないまま閉まった。
まだ今日1日目なのにざわざわして仕事終わりにわたしは帰路を少し寄り道してサイクリングをして帰ってきた。
運動したことで少し発散されたけどなんだか満たされない。
そんな風に自転車をこぎながら
飲みの約束とか、約束をしなくても
いけば誰かに会える
そんな場があったことの大切さを実感した。
なんとなく人肌恋しい時
約束作るのはエネルギーいるけど
いけば会える
このくらいの軽さで人に会える場って大事だな。
他のボルダリング仲間も登らないけどコーヒーだけのみにくる日がある人もいてその人たちもきっとそんな事感じてるかもな。
行きつけの飲み屋とかカフェとか
いけば何人か顔馴染みの人に会えるかもしれない
そんな場を何個か持っていたいなと思った。

私の作業療法士

私は作業療法士と言う資格を持っている。

いわゆるリハビリテーション専門職と呼ばれる。

リハビリテーションという言葉は日本では医療・介護に限って使われることが多いけれど、海外では医療・介護だけでなく様々な場面でリハビリテーションという言葉が使われている。

例えば古くは「ジャンヌ・ダルクリハビリテーション
ジャンヌダルクはイギリス軍の手におちて宗教裁判の結果「異端である」との宣告を受け破門され火あぶりの刑となった。しかしその25年後再審が行われ、まず「異端である」という宣告と破門が取り消された。この裁判は伝記などで「リハビリテーション裁判」と呼ばれている。無実の罪の取り消し、破門の取り消し、名誉の回復など、全人間的な名誉や尊厳の回復にかかわる事をリハビリテーションとしている。他にも例えばいったん失脚した政治家の「政界復帰」を「その政治家がリハビリテーションした」と使うこともある。

こんな風に本来のrehabilitationという言葉の語源に立ち戻ると、re→「再び」 ~ation「~する事」 そしてその間の「habilis」は「適した」とか「ふさわしい」という意味で、リハビリテーションは「再び適した状態にする」とか「再びふさわしいものにする」という意味になる。リハビリ=訓練、運動ではなく、訓練や運動はあくまで1つの手段であって、医学で言われるリハビリテーションの本来の意味はその人がたとえ病気が治っても治らなくても「その人らしく生きる権利を得る」という意味だと私は理解してる。

 

作業療法は英語でOccupational therapyと呼ばれる。Occupationの語源である「occupy」には「従事する」「占める」「費やす」「用いる」などの意味があって、人がその人らしくある為に物や時間、場所などあらゆるものを精神的・物理的に占め費やすこと、人としてあるべき場所にあるがままに収まる事を意味している。

作業療法の「作業」はヒトの生活や一生を構成する様々な行為、全てのことを指していて、手作業のようなものだけでなく、食べることも寝ることも遊ぶことも働く事ことも「作業」と呼ぶ。

その人、1人1人にとって大事な作業はみんな違うし、その作業の意味も違ってくる。

人の生活はそんなその人にとって大切な作業の連続で成り立っている。どれか1つの作業が欠けても健康のバランスが崩れることもある。

日々、人は様々な作業を営み、そんな風に繰り返される営みを積みかさねる事でその人らしい1人1人違う人生が紡がれていく。そしてそんな作業を通して自分の役割なども見出していく。普段は何気なく朝起きて、着替えて顔を洗ってご飯を食べてとか無意識にしていることも、思わぬ「やまい」や外的環境も含む「しょうがい」そして「老い」などは日々の作業の営みに支障をきたし人生のつむぎにほころびを生むこともある。予期せぬ、「やまい」や「しょうがい」により、今まで当たり前のように出来ていた現実生活との関係を閉ざされ、周囲の人たちや仕事など今までの自分の生活の世界の物や出来事とのかかわりを失う。時には精神疾患のように心ここにあらずのような、自分の身体との関係まで危うくなる事がある。

作業療法士は「ヒト」と「作業」と「環境」の3つの視点をもって、なんでその営みに支障が生じたのか、その人にとってその営みにはどんな意味があるのか、どう工夫したらいいかなどをその人と一緒に紐解く。そして作業療法はそんな日々の「作業(生活行為)」という手段を用いて五感を通し、「いま、ここ」にある自分を確認しながら周りとの関係を回復していく。

 

今のご時世だと、病気でなくてもコロナウイルスによる「しょうがい」により色んな人の日々の営みやバランスが変わり日常生活に支障が出ている人もいる。そんな風に何かの外的環境の要因で日常生活に支障が出ている時にも作業療法の理論は役立つこともある。

ついつい作業療法が大好きで気づいたらだらだらと作業療法の話になってしまった。

 

私にとっての作業療法士

私は何回かブログに書いているように摂食障害だ。

そんな摂食障害にほとんど占められていた自分からそれなりにそこそこhappyで自分らしく回復できた過程には色んな作業があった。

入院生活中の誰とも話さず無心に日記を書いたり、折り紙を折る作業を通じて自分と対話する時間、専門学校に通って勉強に没頭する作業を通して食べ物から気を紛らわす時間、日々に何気ないお風呂の時間や散歩の時間、それぞれの時間・作業に意味があってそれを振り返ると膨大な量になってしまうからやめておこう。

先日、自分の趣味であるボルダリングを始めたきっかけを振り返る機会があり、ボルダリングも自分にとっての作業療法だったなと思ったので書きたくなった。

5年前私は人生で初めてボルダリングをした。

この少し前から私は専門学校以外の居場所が出来ていた。

学校の実習先の施設で出会った社長さんに勉強会に誘ってもらいその勉強会で出会った面白い大人たちとの繋りだ。この人との繋がりが出来てから各段と回復のスピードが速まった。
この頃の私は身長163センチにして35キロというガリガリな学生で食べ物も食べれない日や野菜しか食べれない日がほとんどだった。

それでも勉強会で繋がった大人たちは食べれなくてもいいし途中でしんどくなったら抜けていいから飲み会においでとか地域のお祭りやいろんなイベントに誘ってくれた。

今までほんとはヒトとの繋がりや温もりを求めていても食べられないからとか、もししんどくなって途中で帰りたくなったら申し訳ないからとか食べれなくてノリが悪いとか思われて嫌われたら嫌だからとか色々思って誘い断っていた。それなのにそんなことどうでもいいくらいいざ参加すると普通にみんな接してくれた。

そんな中、目の見えない人と一緒にランニングを毎週してるんだけど来ない?と誘ってくれた人がいた。私は身体を動かすのが好きだし、パラスポーツにも興味があったし何よりその大人たちと関われるならなんでも楽しくて子犬のようについていった。

私にとってランニングも勉強会という作業も好きなことだし興味もある事だけど何よりその大人たちと一緒に関われることが大事な作業の意味だった。

そんなランニングにいつものように行った帰り、今からボルダリングに行くんだけど行く?と誘ってくれた2人の大人がいた。

この2人は事あるごとに色んな相談に乗ってくれたり、私より私のことを知っているんじゃないかと思うくらい私が悩みに悩んで自分の殻にこもろうとしているくらいに最近元気?と連絡をくれたり、何に自分が困っているかわからない時も取り留めなく話す私の言葉に対して思考を整理してくれるスーパーマンだ。
今思うとこの2人は私という人の特性を存分に生かして、私にボルダリングという作業を通して居心地のいい場を調えて私が私らしく生きれるような作業療法をしてくれた。

人見知りという私の特性、自分から話しかけるのは苦手たけど話しかけられれば誰とでも話せる私の特性、人のぬくもりに飢えてる私の特性、体を動かすことが好きなことを知っている2人は、最初は時間を合わせて一緒にきてくれた。そして、常連さんの多い時間帯に連れてて行ってってくれて常連さんの輪の中に一緒にいれてくれて色んな人と人と繋げてくれて常連さんもだんだん私の顔を覚えてくれた。

そもそもその2人が先にボルダリングを始めていて色んなジムに行ったあと1番お客さんがフレンドリーなジムに通い、常連さんと仲良くなってから私を誘ってくれたタイミングもさすがだと思う。

そうやってそのうち、「2人がつれてくる女の子」から、みんなが○○ちゃんと私を認識してくれて、自然とだんだん1人で行けるようになった。

はじめて1人でボルダリングジムに行くときはドキドキだったけど常連さんが話しかけてくれた時はうれしくて今でも覚えている。
そのうち、そのジムの中で行われるパーティーに参加したりするうちにだんだん常連さんとも仲良くなって、ボルダリングだけでなく飲みに誘ってくれる人や古着屋巡りに連れて行ってくれる人、旅行に行ったりと、居場所がいっぱいできてボルダリング以外にも色んな居場所が出来た。

今、思えばボルダリングを始めたタイミングもとても絶妙で専門学生もあと3か月で卒業という時期だった。私が何か1つのことにのめりこみやすく、のめりこむと周りが見えなくなること、それが長所でもありそれが原因で摂食障害になったことも知っている2人は私が社会人になって大好きな作業療法だからこそ仕事にのめりこみすぎる事を心配してボルダリングという居場所を提供してくれたんじゃないかと思う。

ボルダリングに出会ってなかったこと考えるとすごく恐ろしい。きっと仕事に明け暮れ、何か悩みがあっても勉強会の繋がりの人も結局仕事で繋がっている人なのできっと1人で抱え込んでいただろう。

今、仕事と全く関係ない人のつながりがある事はすごい大きい。
ボルダリングを勧めてくれた2人は色んな理由でボルダリングを辞めてしまった。

時たま、それって私の為に身をひいてくれてしまったんじゃないかと思ってしまう事がある。

2人に依存しすぎしないように。

そのくらい色んな繋がりができ始めたころに2人はやめた。

いつの間にか2人に相談するのは究極、困った時だけになっていた。

 

あるドクターが自立とは依存先を増やすことと話していた。

www.tokyo-jinken.or.jp

 

病院ではリハビリ依存という言葉があるが本来リハビリはやってもらうものではなく自分らしく生きるための回復過程。その人らしく生きられるためにどうしたらいいかは一緒に考えるけれど行動していくのは自分だ。ボルダリングを誘ってくれた2人は私にたくさんの依存先を作ってくれて2人に依存しないようにしてくれた。依存先、安心できる場が増えたら自然とやってみたい事もふえた。自然と食べられるようにもなった。自然と自分からいろんな輪に入れるようになった。

 

私もそんな風にその人が輝けるような人と人だったり、人と場を繋げられる人になりたい。

 

小さい頃の夢

世間はコロナのニュースでいっぱいで在宅勤務や外出自粛の要請が出ているけれど介護現場で働いている私は変わらず働いている。もはや通いが減り訪問対応が増えたため、マンツーマンの対応が多くいつもより忙しい。

しかも、コロナの影響に加え、私が働いている会社はこの4月から新しく看護小規模多機能居宅介護を開所したためその準備とでバタバタとしている。

私は今日は休みだったけれど、その新しく開所した看護小規模多機能の中にある地域交流スペースに子供用のボルダリングの壁を作るということでその手伝いに行った。

手伝いに行ったと言ってもホールド(壁を登るための人工の石)をつけるのは私がいつも趣味でお世話になっているボルダリングジムの店長さんなので私は私の職場の人と店長さんの顔繋げ+見守っていただけだけど(笑)

 

私の趣味

私は約5年前からボルダリングを趣味で始めた。このきっかけはまた別で書こうかな。

ありがたいことにボルダリングジムのお客さんとはすぐに仲良くなれた。

ボルダリングから派生して、古着が好きな何人かと古着部を結成して古着屋巡りをしたり、飲みが好きな人たちと飲み会をしたり、家具が好きな人たちと家具屋巡りをしたり、旅行好きな人と一緒に旅行に行ったり、サイクリングが好きな人たちとサイクリング部を結成してサイクリングをしたり、料理好きな人達と食いしん坊の会と題してい一緒に料理を作ってホームパーティーをしたり、ほかのジムに一緒に登りに行ったり、外岩に行ったり、ジム内にとどまらず色んな事で遊んでもらっている。

 

私の小さい頃

私は小さい頃、地図のような町のような絵を描いて、それに人形を歩かせたごっこ遊びをよくしていた。そのごっこ遊びにお金は存在しない。物々交換で成り立っていた。

そこに描かれている八百屋さんや花屋さん、レストランやスーパーはみんな友達で小さい頃の私はみんなが友達だったらお金がいらない世界で生きられるんじゃないかと本気で考えていた。そしてそんな人の繋がりもきっと求めていたんだと最近は思う。

そして

ボルダリングジムのお客さんは社会人の人が多く、もちろん普段はちゃんと仕事をしている(笑)

美容師さんやバリスタ、料理屋さんや医者、看護師、リハ職、IT関係、エンジニア、建築関係と様々で今ではそのボルダリング仲間のお店でご飯を食べたり、髪を切ってもらったり、コーヒーを飲みに行ったり、逆にうちの職場に就職してくれたボルダリング仲間もいる。

今日、ボルダリングジムの店長さんに職場の壁のホールド付けてくれるのを眺めながら

今の私、小さい頃に描いていた夢のような暮らしに近いことできてるなと感じた。

顔の見える関係の中で生きている暮らしはとても温かいなあ。

さて私は何で恩送りできるかな。

ひとまず、友達、周りの人たちを大事にして生きていきたい。

 

 

 

通勤時間

1人暮らしの頃、私は職場と家が同じ敷地内にあった為、通勤時間徒歩1分という環境に暮らしていた。

実家に戻った私は晴れた日は自転車で20分くらい、雨の日は徒歩とバスで30分くらいかけて通勤している。

通勤時間が長いほど幸福度が下がると言うことがネットに書かれていたけれど、実家に戻って通勤時間がないことも良くない気がした。

以前、読んだ論文にはバスや電車通勤の人に比べて徒歩や自転車で通勤する人はストレスが少ないと言うような究結果も書かれていたから単純に通勤時間だけで幸福度が変わる訳ではないと思うけれど通勤時間が長い人が幸福度が下がる理由には通勤・帰宅ラッシュによる混雑でパーソナルスペースを確保できないストレスや遅延など自分ではコントロールできない状態に巻き込まれるストレスが挙げられていた。

高校の頃、私はそのラッシュのストレスであえてめちゃくちゃ早い電車に乗ってラッシュを避けたり、歩いて登校したりしていたからきっと同じように電車での通勤はストレスになると思う。

私が一人暮らしをしていた頃、通勤時間徒歩1分という環境はギリギリまで寝ていられたり家事をできることや仕事で疲れた時すぐに家に帰って休めるなどいいこともあった。
その反面、一人暮らしのころは仕事が終わって、「今日のあの対応はあれでよかったかな。」とか「もっといい方法があったかな」とか色々振り返ってる間もなく家に着き、家まで仕事の事を持ち帰って消化しきれないまま次の日を迎えていた。
ギリギリまで寝ていられるメリットから夜更かしも増えた。そうなると朝起きてすぐに仕事とという体も心も起き切っていない状況で仕事モードに切り替えるのにエネルギーを使った。

実家に戻って適度な距離が出来た事で色々と消化できる時間が出来たり、朝一番に体を動かすことで低血圧の私にとってはいい感じに体も起きてきて血圧も上がってきたり通勤時間の間に心の準備も仕事モードに切り替わり朝礼のときの心身の状態がすこぶるいい事に気づいた。
そして明日は何時に出るからこの時間に起きるからと意識が向き、夜もきちんと寝ようと生活リズムも整い始め、自分の身体を大事にするようになった。

その日の気分によってバスに変えて読書や好きな音楽を聴いて通勤したり自転車で爽快に通勤したり通勤に楽しみもできた。

初めは求めて職場と同じ敷地内に暮らすことを決めたから後悔もないしそれによってたくさんの経験もできたけど実家に戻り通勤ラッシュを避けた通勤方法での適度な通勤時間は私にとって必要な事に気づけた。

ゆるりと住み開きがしたい。

アウトプットが大事と思いつつ、紙ベースの日記にはまりブログが完全にストップしていた。書かない間にもいろんなことがあった。

そんな中でも、最近、私は3年半の1人暮らしを一旦休憩とし実家に戻った。
1人暮らしは私に沢山の思い出を残してくれた。そして、思い出を振り返えると私がやりたい事のエキスがたくさん詰まってると思ったので忘れないように残しておこうかな。

 

私は2016年9月に1人暮らしを始めた。

引っ越し先は団地で6階には私の職場があり私は3階に引っ越した。
全然職場と関係ない人も住んでいるから社宅ではないけど感覚としては社宅のようなイメージだ。

通勤時間徒歩1分。
その上、ファミリー向けの団地で私が越した部屋は3LDKというなんとも1人には贅沢な部屋だった。私はそのうち2部屋を職場に倉庫として貸し住むことになった。
それでも7畳の一部屋とそれと同じくらいのリビングがあるというなんとも広い部屋だった。

この団地に引っ越したきっかけ


1つは実家での暮らしがいよいよしんどくなったからだ。
私の家族は元々、仲が良いとはいえず両親は喧嘩ばかりしている。それは小さい頃からしんどかったけど、それに加えて、私が社会人になり毎晩、夜中まで仕事で日付を越して帰ってくる日々が続いたり、夜勤があったりで早寝早起きの母とは完璧に生活リズムが異なった。ちょっとの物音で起きる母にとっては毎晩、ストレスがかかりお互い感情的に言い合う、価値観の押し付け合いになり家の中はかなりぎすぎすしていた。
だんだんと1人暮らしをしたい思いが募っていった。それに加えて、1人暮らしをして摂食障害から回復した人の話を聞いたり色んな事が重なり1人暮らしをしようと決意し、親に黙って物件を探していた。
そんな矢先、社長から団地に住むことを提案された。
もともと私は会社の理念の「地域を1つの大きな家族に」という人との繋がりを大事にしている部分に惹かれて入社したので、職場と同じ地域に住めるのはとても美味しい話だと思い、すぐに引っ越しは決まった。
親に黙って進めていたので初めは猛烈に反対された。そもそも摂食障害の症状もかなり残っていたので1人暮らしなんて到底無理だと思われていた。
でも負けず嫌いの私は無理と言われるとやりたくなるというなんとも天の邪鬼で強引に引っ越した。

結果、摂食障害の症状も親との関係も距離を置いたことでおたがい冷静に振り返ることが出来、良い方向に進んだ。
距離を置くって大事だ。

 

1人暮らしの間、色んな事があった。

たまり場

私の部屋は広いのでこの3年半で色んな人が遊びに来てくれた。

職場の人、趣味のボルダリングの仲間たち、幼馴染などなど色んな人が遊びに来てくれては、一緒にご飯を作ったり、誕生日会をしたり、飲み会を開いたり、ゲームをしたり、対話を重ねたり、みんなそれぞれ心地がいいと気に入ってくれて何回も遊びに来てくれた。

幼馴染に限っては実家でギターの練習ができないからと私が仕事をしているのに職場に鍵を借りに来て自分の家のようにギターの練習に来ていた。(笑)

でも代わりに夕飯を作ってくれていたりお互いウィンウィンでとてもよかった。

 

ゲストハウス

遊びに来た友達や遠くに住んでいる友達が遊びに気がてら泊まりに来てくれたり、職場に研修に来た人の宿泊場所になったり、いろんな人が泊まりに来た。さすがに研修者が1週間続いたときは知らない人との共同生活で疲れたけれど、自分にとって心地よい空間にしたインテリアをみんなが気に入ってくれたのはうれしかったし、家にいながらいろんな人と話せて楽しかった。普段広い空間に1人なので部屋もその部屋に見合った人数がいる事できっと喜んでいたと思う。(笑)

 シェルター

私の友人の何人かはやっぱり家族との関係がよくなかったり、いろいろ心の病気を持っている子がいる。時たま、私の家はそんな友人たちの避難所にもなっていた。親と喧嘩したから泊まらせてとか、家が居場所だったけど病気の症状で家も居心地が悪くなったとか。私が良くも悪くもあまりもてなさいのが良かったらしくみんな気兼ねなく自分の家のように過ごしてくれた。私も構わず用があるときは外にでたり、しんどくならないようにはしていた。

住み開き

思えば小学校の頃も親が共働きなのもあり我が家は子供たちの楽園でいつもたまり場になっていた。それがすごく楽しかった思い出がある。だから、そんな風に家に人を招くのは私の中では自然なことでそこでもてなすこともなく、好きに使ってというのが自然だった。人とずっといるのは疲れてしまうけれど根本寂しがりで、1人暮らしをしながらも時たまこうやって心地いい人たちが遊びに来てくれることはとても私にとって幸せな時間だった。

思い出を振り返っていてきっと私、ゲストハウスしたいなとかCaféもいいなとか色々思うのは、こんなふうに色んな人たちが気兼ねなく集まれる場を作りたいんだろうなと思う。まあ、作るっていうのはなんだかおこがましいから、こんなふうに住み開きのように自分が好きな本や家具を置いた空間を一緒に心地よいと思ってくれてる人たちが自然に集まってきてくれる場が出来たらいいな。と思う。

そしてこんなふうに無理せず今の自分に合った方法でできる事をしていくうちに、自分の友達だけでなく+もう少し世の中に開かれた、自然と人が心地よいと集まってこれる場が作れたらいいな。

 だからこそ、ちょっと心をオープンに、そしてあまり思考を固定化せず、いろんな人からいろんなことを吸収できる素直さをもっていたい。風通しのいい人でありたいな。

引いたり入り込んだり。

私はよく家の近くの蔦屋書店に休日や仕事帰りに行ってはコーヒーを飲みながらそこにある本たちを読んだりする時間を大事にしている。

そこでは期間限定で何かテーマに合わせて本を紹介するブースがある。

毎回、旅やコーヒーについて等自分が大好きなテーマが多いので私は蔦屋書店に行く度にこのコーナーを楽しみにしている。

先日もそのコーナーを楽しみにしながら蔦屋書店に向かうとその特設コーナーに「家族の風景、虐待の現場」というコーナーが出来ていた。(11月は児童虐待防止推進月間らしい。)それを見たとたん、私は「蔦屋書店さん。毎回ホットなコーナーをありがとう」と思った。というのも、私は最近、自分にとって大事な人や友人から社会的養護のことを話で聞いていてとても興味がある分野だったからだ。しかもその日は私がsoarというメディアで読んでからファンである児童養護施設等を退所した人たちを後方支援する「アフターケア相談所『ゆずりは』」の所長である高橋亜美さんと写真家である川内倫子さんのトークショーがある事を見つけ「今日、ここに来た私は天才ではないか」と思いながら即申し込んだ。

www.acyuzuriha.com

soar-world.com

2人が対談する事になったきっかけ

トークの始まりは2人対談するきっかけから始まった。

高橋亜美さんがゆずりはで働く前に9年間自立援助ホームと呼ばれる施設で職員として働いていた。そこで働いていた高橋さんはしんどい時などよく近くの喫茶店で休憩をしていてそこで読んだ雑誌で川内倫子さんの写真に出会い心が救われたそう。そこから高橋さんは川内さんのファンとなり今回初対面で2人の対談となった。高橋さんは川内さんの写真を見たときの感想を「暖かさの中に寂しさがあった」と話していて、今回の2人のトークはそんな風に0か100のようなジャッジされないトークで、私にとっては聞いていてとても心が救われた。

「世界ってなんだろう」

写真家である川内倫子さんは写真集を作製する時やエッセイを書く時、「世界ってなんだろ」という事を意識していると話した。写真集を作製する時もエッセイを書く時も「色んな要素を入れたい」「だって社会は色んな側面をもっているから。いい悪いじゃなくてそれが世界」と話していて私はこの川内さんのトークにとても惹かれた。

川内さんは子供が生まれてから書いたエッセイ「そんなふう14」で↓のような事を書いた話をしていてこのエッセイの中にも

「子供と一緒にいると、すれ違う人によく笑いかけられる。初めて会った、ただすれ違った他人と距離がぐっと縮まり、ほわんとあったかい空気が流れる。」

と東京でも子供を連れていると、他人との距離を近づける「暖かさ」と、逆に子どもを連れていて「悲しくなった気持ち」の両方を書いている。

川内さんは「悲しかったですけど、自分がもしも疲れている時に、駅の狭い階段で逆行してくるベビーカーを持った人が来たら、ちょっと邪魔だなあと、ちらっとでも思うかもしれない」というような事を話していて、どっちがいいとかでなく人間てそんなもんですよねと俯瞰している様子がとてもかっこよかった。

 

milkjapon.com

  自分との境目

トークに中でファシリテーターの方が高橋さんに対して色んな人のケアをしていて「むかつく」とか思ったりしんどくなったりイライラしたりすることはありますかというような質問に対して「ありますよ(笑)」と高橋さんは話しながら「でも自分のそういう感情を置き去りにしないようにしてます。そこを受け止めないと相手の言葉の裏にあるものとか探ったり俯瞰できない」というような事を話していた。そして「だって自分の感情置き去りしても、どこかで残るじゃないですか。感情って。子供の頃のトラウマとかも。置き去りしても後からどこかで返ってくるんですよ。でも残ってもいいものだと思ってる。特に子供の頃とかはその感情をどう処理していいかわからない時もあるじゃないですか。」と話した。

 

私は介護の仕事をして4年になった。その中で「不安」という感情を罵声や暴力で表出するばーちゃんのケアが続くとしんどくなる。言葉だって偉大な暴力だ。ずっと聞いているとだんだん心にぽっかりと傷が出来た。そしてそんなしんどさを置きざりにして「仕事だから」とか「ケアだから」とか「こうやって表出してるばーちゃんが1番しんどいんだ」とか思いながらただただ聞くことしかできなくなっていた。そんな風にしていたら、ばーちゃんの罵声や暴力の裏にある不安の本質を探る余力がなくなってきてばーちゃんと関わる事が「ただしんどい」としか思えなくなってしまっていた。そして1日中そのばーちゃんの不安に向き合ったある日の仕事の休み時間、休憩部屋に入ったとたん「わっ」と涙があふれ「あ。このまま休憩から戻りたくない」となった日があった。そこから上司と相談し他の理由もあったがいったん休憩として3か月前から常勤からパートになった。その時に上司にしんどさを話したことで自分の感情が処理できたのかそのばーちゃんの罵声や暴力の裏にある「自分が忘れていく不安」や「旦那さんが弱っていく不安」「スタッフがいなくなる不安」など色んなばーちゃんの不安に目を向けられるようになった。でも私はどこかでパートになったのは逃げだよな。とか引け目に感じる3か月でもあった。でも高橋さんのファシリテーターの質問に対しての言葉やその後、高橋さんが話した「受け止めなきゃとか受け止め続けるのはしんどい」「全部できなくてもいい」という言葉に救われた。

 

そんなトークから川内さんは「家族とか密な関わりになるほど自分との境目が分からなくなる」「子供も1人の小さい人間で個と個なんですよね」と話した。

川内さんは「写真を撮る時に引いてみたり入り込んでみたりするように、家族のかかわりも似ていてたまに出張行くとその間、子供のことを見てくれる夫のありがたみを感じる」と話していて「家族との関係が行き詰ったときはちょっと引いてみるようにしてます」と話した。

他にも川内さんは子供が生まれて幸せなはずなのに子どもがすぐ泣き止まない事が続いたり子供と自分だけの世界が続いた時、幸せよりもしんどさが増し、気持ちがマイナスになったことがあるそう。そんな時、ママ友たちの言葉がプラスの気持ちに引き戻してくれたと話す。

高橋さんと川内さんは虐待だってそんな風に引き戻してくれる人だったり引き戻してくれるきっかけがあるかないかで紙一重でだというようなことを話した。

今でも家のある岐阜からゆずりはのある東京国分寺まで新幹線で通勤している高橋さんは「ほんと子育ては母親がするものとか気持ち悪いですよね。(笑)。父親だって近所の人だって誰でもいいはずなんですよ。」と話した。

高橋さんは以前、歩いていた際に子供の顔をビンタしている母親に出会った話をしてくれた。高橋さんはこの仕事をしていてもなんて声かけていいのか悩んだと話した。母親を責めたりはしたくないけど子供も助けたい。分からないけどどうにかしたいと話しかけた高橋さんに対しそのお母さんは「関係ないだろ」と話し、去って行ってしまったという。自分が話しかけた事で家で子供はお前のせいで変な人にはなしかけられたとか余計暴力にあってるかなとか考えるし自分の声かけが良かったのか今でも高橋さんは分からないという。でも声をあそこで声をかけなかったらもっと後悔していたと思うと話した。

 

2人の話を聞いて私は世の中、色んな側面を持っていてどれがいいとか悪いとかじゃないと改めて感じた。

私は自分が大事な人たちが困っていたりすると力になりたいとか思う。でも自分の関わりが無力だったり逆に傷つけてしまったとき、ちょっと落ち込む。

でも2人の話を聞いて世の中は自分と相手の世界でもなく色んな人が色んな世の中と関わっていて自分の関わり方が正解かは分からないけどもしかしたら相手は他の世の中との関わりで変わる事もあるし、いろんな人が周りの人に関心を持ち続けることが大事なのかなと思った。何が正解かなんてわからないけど正解を求めたり正解に追われる世の中でなくこっちもありだし、こっちもありだよね。みたいな世の中に「ゆとり」が生まれてそんな余白の中で何かのとっかかりで今生きづらさを感じている人がちょっと生きやすい価値観に出会えたらいいなと思った。

「偶然会う人はメッセージ」

川内さんはトークの中で「偶然会う人はメッセージと思っている」と話した。私はこの言葉がとても響いた。私が今生きれているのはまさしくこれで、今まで自分ではどうにもできなくなったとき色んな人に引き戻してもらった。

どうしても私は心の元気がなくなったりすると内に籠ろうとして余計に自分だけの世界になり負のループにはまる。だからこそ、行き詰ったときに行ける心地よい居場所をたくさん持ったり運動とかで発散したりなるべく殻にこもりすぎないように気を付けようと思った。もちろん内省する時間も必要なんだけど。

そして偶然出会ったこのトークショーも私にとってはこんなふうな事を改めて振り返る時間をくれた大事なメッセージなんだろうな。

 

 

 

閉鎖病棟-それぞれの朝- 

先日、映画「閉鎖病棟-それぞれの朝-」を観に行った。原作は作家であり精神科医である帚木蓬生さんの小説で私はこの小説が好きで映画化されると知った時から上映されるのを楽しみに待っていた。

一方で私は精神科病院、そして映画のタイトルである閉鎖病棟にも摂食障害で入院した事がある。そこに入院したからこその今で入院した事自体は悪かったとは思っていないけれど今でもその頃の事を思い出すとなんとも複雑な気持ちになるのできっと映画を観たら私の心は揺れるんだろうなと覚悟をして観に行った。

それでも最近はそうやって自分の心が揺れるだろうなとかちょっと予測はできる時もある。この映画を観るのもあえて観た後、1人でこもってナーバスになりずきないようにと私にとってざわついた街、渋谷で観ることにした。
案の定、観た後はなんとも言えない心のざわめきがあったけれど普段だったらうっとおしくて落ち着かなくて大嫌いな人混み渋谷のざわめきが、映画を観た後のわたしの気分には色々考えさせないように邪魔をしてくれるなんともありがたい存在になった。

映画を観て後悔はないし意外と人の優しさなどに触れられた映画で暖かい気持ちになっていた。けれど、やっぱり色々思い出したりなんとも言えない気持ちになった。と同時に、でもそうやってきっと自分があの頃から少しずつ生きやすくなってることを確認したり、今の自分があるのはあの頃の自分や周りのおかげだと改めて振り返ったり、あの頃の記憶が薄くなってくことで生きやすくなりつつあるんだけれど、あの頃のことを忘れたくない気持ちがどこかにあって時たまこうやって自分の心を揺さぶってるんだと思った。

前にブログで自分の備忘録として私の拒食症のことを書いてその後も何回かにわけて振り返えって記録してこうと書いた割に意外と振り返っていなかったので今回、映画を見て入院してた頃とかを振り返りたくなったので自分の備忘録として残しておこう。
(少し映画ネタバレあります)

私は自分が高校1年生だった2009年と高校2年生だった2010年に精神科病院に入院した。
1回目の入院は大学病院で閉鎖病棟開放病棟保護室(隔離室)がある病院だった。2回目の入院は1回目とは違う病院で閉鎖病棟保護室がある病院だった。どちらの入院の際も私は入院を拒んだので医療保護入院という入院の形態で入院することになった。

高校1年生 1回目の入院

1回目の入院直前は約3か月、水だけの生活の上に、過活動の症状で毎晩1時間ランニングと、周囲からは倒れないのが不思議で倒れてくれたら入院出来るのに言われていた。その頃は何を言われても耳には入らず、楽しい事は無く、ただルールをこなすために生かされている感じだった。

家族も私の行動を理解出来ず、孤独が病気を加速させ心拍数が20まで下がり、私の知らないところで入院手続きが済み、強制的に入院(医療保護入院)となった。

入院生活1日目は過活動が止められずひたすら廊下を歩いていた。きっと看護師さんは「そんなに動いてると拘束されちゃうよ」と教えてくれたようにも思うけど歩くことにとりつかれていた私の耳には入っておらずこのまま動いていて入院食も食べないのは命の危険だと判断されベッド上に拘束、女子高生ながらオムツ、そして鼻に管を繋がれ経管栄養の状態、監視カメラ、廊下から覗ける窓、ベッドから動けないにもかかわらず内側からは開けられない鍵のかかった扉と、まるで牢獄のような保護室という部屋に約1ヶ月いることになった。

入院前、食べない事以外にもルールを作り、部屋の物の位置がいつもと違うと落ち着かなかったり、いつものルーチンが1分1秒でも違うとパニックをおこしたり、自分で自分を縛っていて自分でも苦しかった。周りは苦しいならそのルールを手放して普通に生活をすれば良い。そんなに痩せたら命が危ないと心配してくれた。
私は痩せすぎが命に危険を及ぼすのも少し体重が増えても問題は無い事も分かっていて、むしろ入院前、最後の方は体重を減らしたいとは思っていなかった。ただただ1日ルーチンをこなすことが安心なだけだった。

「ルールを手放したら?」など症状に対しての声掛けは風邪の人に「咳を止めてください」や「熱を下げてください」と言ったり、花粉症の方に「くしゃみを止めて」などと言っているのと同じで、ルールを作るのは症状で自分ではどうにもコントロールができなかった。そんなルールを手放せない自分に自信がなくなり、その不安を何とかしようと自分にまた新たなルールを作り余計に症状が悪化していった。

拘束されたことで自分ではどうにも出来ない状況からやっと解放された。やっと止まってくれた。命が助かったと心から思った。そんな拘束開始日は皮肉にも自分の16歳の誕生日だった。拘束され牢獄みたいな所にいる恐怖と同時にほっとしたという不思議な感覚だった。

保護室で拘束中は管から勝手に栄養が入ったいた。脳に栄養が入ったことと何もできない状況になりひたすら自分はどうしてこうなってしまったんだろうとか色んなことをベッド上で空をしか見えない窓を眺めながら1日中考えていた。自分が拒食症である事を少しずつ理解したり、幼少期の頃からの自分をひたすらに振り返る時間になった。自分の好きだったこと、嫌だったこと、一緒にいて落ち着いた人、憧れの人、苦手な人、ずっと引きずってること、楽しかったこと、家族のこと、自分の性格、色々と振り返り自分の事を知っていった。
今思うときっとこの作業は回復の過程で大事なことで今の私にとっても大事な財産になった。

私ってこういう性格だったんだとか全てが過去と繋がっている反面、なんだか新しい自分に出会ったような、命も助かり生まれ変わったような不思議な感覚だった。今の私なら何でも出来るんじゃないかと思うほど世界がキラキラして見えた。
その頃、看護師さんが定期的に巡回に来る度に今までの自分の事や何でこの病気になったのか自分なりに振り返った事を伝えていた。映画の看護師さんもとても安心感があったが、実際ドクターとはほぼ関わらないので私は看護師さんたちとの会話でたくさん助けられた。あの看護師さんたちの安心感、信頼感は不思議だ。そして振り返っているうちに生きたいとか食べたいとか本当に心から思ったし今なら何でも食べられると思った。

その頃からドクターにはしきりに「拘束をはずしてください」「管から栄養じゃなくてご飯を食べさせてください」と訴えていた。
ドクターは今まで食べなかった人が急に食べ始めると体の電解バランスが崩れ死に至ることもあるという説明に加えこの病気はそうやって言って拘束をこっちがはずしたとたんご飯を捨てたり吐いたりするんですと信じてくれなかった。心から「生きたい!」と思っていて伝えればすぐに食べられると思った私にはショックだった。

何度も訴えるとまずは水を1日に一定の量、1週間飲めたら拘束をとく、管を抜く、次に体重がいくつ増えたら筆記用具を部屋で使っていいとか更にいくつ増えたら閉鎖病棟に行ける、また増えたら何時間ベッドから離れていいとか、今思えば摂食障害の特性である目に見えて結果が見える達成感や安心感を利用した行動療法と呼ばれる治療法によりなんとなく体重は少しずつ増えた。

だんだん体重が増えて、保護室から閉鎖病棟へ移れることになった時、私は嬉しさと不安と緊張が入り交じっていた。私は入院する時も隔離室に入る時も必死で抵抗し喚き騒ぎ、看護師さんを蹴ろうとしたりした為、3人がかりで担ぎこまれたので入院した。はっきりは覚えてないが閉鎖病棟の患者さんの視線はとっても感じた。だから保護室から閉鎖病棟に移る時は他の患者さんには「きっとあの大暴れした患者さんとか思われてるのかな」とか色々思い返すと恥ずかしさや不安でいっぱいになった。でも無だった世界からその恥ずかしいとか思う感情が出てくるのも久々でちょっと嬉しかった。

映画の閉鎖病棟でも不安が強くなって一旦落ち着くために保護室に連れていかれた患者さんが閉鎖病棟へ戻るシーンがある。映画の患者さんたちの視線や表情がとっても懐かしかった。少し怯えたような表情、興味津々な表情、おかえりと迎えてくれる、大丈夫と心配そうな表情。

実際私が閉鎖病棟へ移り、病棟のデイルームに出ると同じように、決して軽蔑するような視線はなくここにいていいんだと思えた。
初めて話しかけてくれたのは同じく拒食症の小学生の子で私がデイルームに出てくるのを待っていたらしい。「入院した日ずっと歩いてたでしょ。お姉ちゃん。私と同じ病気?あんなことしたらあっち(保護室)の部屋に行っちゃうよって思ってたらほんとにつれてかれちゃった。あっちの部屋ってどうなってるの?」と純粋に保護室や私に興味を持って話かけてくれた。
その後もいろんないきづらさをかかえここに入院している人と話した。でも根は純粋で、でもちょっと人との関わり方が苦手なだけで普段はとても暖かい人たちだった。精神病院の閉鎖病棟と聞くと、どこか冷たかったり、殺伐とした雰囲気をイメージする人が多いかもしれないが、普段は患者同士も交流するし、お互い助け合って生活していて、誰かを排除する訳でもなくデイルームでは各々落ち着くルーチンをこなしながら過ごしていた。
病院は、ドクターと患者が1対1で関わる訳ではなくむしろドクターとはなかなか会えない。映画で患者同士が様々な形で影響し合って生活していたように、実際も看護師さんだったり患者同士との入院生活の中で壁にぶつかったり、前向きになって動けるようになったりしていった。同じように生きづらさを背負った者同士だからこそ、優しくなれたりもする。実際に家族が面会に来て泣いて荒れまくった時も「お疲れさま」とみんなデイルームで迎えてくれたり、あの小さなデイルームの中にも確かなあたたかな社会、コミュニティーがあった。

1回目の入院中は体重がこのまま戻っていけば治るものだと思っていた。入院中は拒食症のタイプに多い、いわゆる「いい子」を発揮し退院したいがために食事を食べらるようになってからは必ず完食していた。
入院中、体重が増えるうちにこのまま体重がどんどん増えたらどうしようとか不安があったもののそれを言ったら治ってないと思われて退院できないかもと思い、誰にも相談できなかった。幸いにも元々なかなか体重が増えない私は40キロになったら退院というルールに達しなかったものの半年以上の入院は難しいと身長165センチにして37キロという自分の中では安心の範囲内の体重のまま退院となった。
私が病気になった事や弟の不登校などにより母が鬱になり母も家族に内緒で入院手続きを進められ私の退院とほぼ同時に母も同じ病院の閉鎖病棟に入院となった。

退院後の生活

私は父とは元々そんなに話す方では無くそもそも反抗期に拒食症になり反抗期以前の父との関わりがどんなだったかよくわからなくなっていた。その中で退院してすぐ相談相手もおらず、自分のせいで母が鬱になった責任感などから自分が頑張らなければと必死だった。家事をしながら久々に登校という慣れない生活であった為か、いつの間にかまたルールは増えていき、食べられなくなった。退院後定期的に通っていた受診では食べられなくて困っているのにドクターからは頑張って食べないとまた入院だよ。と言われるだけで食べられないから困っていることに対して何も得られるものはなく、退院後も身長165センチに対して37㎏と全然戻ってない体重は一気に減り母が退院した頃にはもう手遅れで1回目とは別の病院にまたもや医療保護入院となった。

高校2年生 2回目の入院

この頃の入院生活は1回目の入院生活のいわゆる「いい子」でいた自分とは違い、ドクターや看護師さんに暴言を吐き、蹴飛ばそうとしたり今思うと人生で一番恥ずかしい。そんなこんなで2回目の入院も即、保護室行きになった。
前回の入院で病院のルールを守り、いい子にしてたのに治らなかった悔しさ、またもや家族が私に内緒で入院手続きをしたショック、前の病院でのドクターへの不信感など何も信じられなかった。

1回目の入院はひたすらに保護室から出たいと思ったのに2回目の入院は誰が来ても口を聞かない、部屋から出てもいいよと言われても部屋から出なかった。むしろ誰ともかかわらないのが安心だった。私がどんなに無視しようと看護師さんは私にかかわり続けた。
ただひたすらに大好きだった中学の頃の吹奏楽部に対してコンクールの応援として千羽鶴を折って日記を書くことだけした。鶴を無心に折っている時だけは心が落ち着いた。

すっかりうつ病から回復した母はこの頃、水島広子さんの「拒食症・過食症対人関係療法で治す」と言う本に出会い、拒食症に対する考え方が変わったようで、どんなに私に無視されようとも暴言を吐かれようとも私の味方でいてくれた。
それが逆にこんなに暴言を吐いたりするのになんでこんなに味方でいてくれるのかついていてくれるのか分からず怖かった。
私にもその本を読むようにと置いていったけれどその頃の私は読む気になれずそのままにしておいた。

千羽鶴が完成した頃、一人で千羽折りきった大きな達成感からか看護師さんが「すごいね」と誉めてくれた時に大好きな中学の吹奏楽の話をした。やっと笑った顔を見れたと看護師さんに言われそんなに笑ってなかったかと思った。
そこから少しずつ自分の部屋から出るようになりレクリエーションに参加するようになった。
1回目の入院は同世代の子や成人の方が多かったが2回目の入院は私以外の患者さんはほとんどおじいちゃんおばあちゃんで高校生の私を孫のように可愛がってくれ何をしても誉めてくれた。1回目の入院とは違うがここにいる患者さんもとても暖かい人たちばかりだった。

そうしていく内に徐々に自信を取り戻し母に勧めてもらってそのままだった本を読むようになった。本を読んだとたん自分の気持ちを代弁してくれてるようなことばかり書かれていてなんでもっとこの本に出会わなかったのだろうと思った。
今思うとこの本に出会ったタイミングも私は運がいいと思う。
今まで体重が増えればなおると思っていたがそれを治るとするなら治るイメージが自分の中で作れなかったし怖さしかなかった。
だけどその本には治る=決して体重が増えることではないこと、食べないとかの症状を無くすことではなく症状がなくても現実世界をそれなりにやっていけるようになることと書かれていた。
食べられないとか食べるとか表面的なことじゃなくてもっと根本の辛さを理解してくれている天使のように思えた。

その本には症状は松葉杖のようなもので例えば足を骨折した時松葉杖がないと歩けない。骨折がなおってないのに松葉杖だけ奪い取ろうとしても必死に抵抗に合うのは当然だと予想できると書かれていた。そして私が一回目に入院していたような無理やり症状をなくすような治療がかえって悪影響になることがあることや今何を感じていて何に不安でその不安をできるだけ減らして自分のペースで安心できる場になったときに自然に症状は手放せると言うようなことが書いてあった。

その本には拒食症を治すというよりこれからの私の人生をもっと生きやすくするために大切なことが沢山書かれていた。今でもこの本は宝物だ。この本を読んだあたりから治したいと言うよりうまくこの拒食症と付き合っていきたいと心から思うようになった。

幸い、2回目の入院中のドクターは沢山話を聞いてくれる人だった。今でも3か月に1回このドクターと話している。入院中、どくたーは学校に戻るのに何が不安か話を聞いてくれた。私は皆が集まる場にはご飯がいつもあること、その中で食べない事でのり悪いとか思われるのが嫌なこと、他にも人の目がとても気になることを伝えたりする中で、私は「みんなに先にこの病気のことや自分の事をカミングアウトできたら人の目を気にする不安が減るかも」と答えをだし退院して登校初日に担任の先生に時間をつくってもらいクラスの前で自分の病気のこと、人の目が気になることを素直に伝えた。

実際、伝えると思っていたより皆は気にしてなかったり逆にどうしたら一緒に遊べるのか考えてくれた友達も出てきたりした。

自分自身が何とかしたいと思う心と周りが受け止める力

映画で入院していた患者が自分の意志で退院を決意する場面がある。

2回目の入院で私が明らかに違ったこと、自分自身が今の状況から何とかしたいと思ってから劇的に変わった。
自分がどうにかしたいと主体的にならないと、いくら周りがよいしょと持ち上げてくれても自分のものにはならない。
そして私自身、母や主治医、クラスメイト、担任の先生、他にも色んな人が病気をカミングアウトした時にそれでも人として受けとめてくれた事がなによりも次のステップに進む糧になった。

映画で退院を決めた患者も色んな患者さんや看護師さんに受け止めてもらいながら、ある患者の為に自分が出来る事を考え退院を決意した。
退院するとき看護師さんが「ダメだったら帰ってきていいんだよ」といった言葉が印象的だった。

今の世の中はなんだか先急いでいてとても私には生きづらい。いったん決めた人生の道から違う道に行く時にはすごいエネルギーを使うし、ちょっと休憩したい、立ち止まりたい時に行き場がなかなか見つからない。私はふとたまに、また精神科病院に入院したいなと思う事がある。精神科病棟は世の中から遠ざけられているけど実は優しさに溢れてて暖かい場所なんじゃないかとたまに思う。
精神科病棟でなくてもちょっと立ち止まりたいときに追いつめられる前に行ける場があると良いなと心から思う。