logbog 旅するように生きる

1993年生まれ。高校生で摂食障害発症。今も自分の心地よい生き方を模索しながら小規模多機能居宅介護施設で作業療法士してます。

閉鎖病棟-それぞれの朝- 

先日、映画「閉鎖病棟-それぞれの朝-」を観に行った。原作は作家であり精神科医である帚木蓬生さんの小説で私はこの小説が好きで映画化されると知った時から上映されるのを楽しみに待っていた。

一方で私は精神科病院、そして映画のタイトルである閉鎖病棟にも摂食障害で入院した事がある。そこに入院したからこその今で入院した事自体は悪かったとは思っていないけれど今でもその頃の事を思い出すとなんとも複雑な気持ちになるのできっと映画を観たら私の心は揺れるんだろうなと覚悟をして観に行った。

それでも最近はそうやって自分の心が揺れるだろうなとかちょっと予測はできる時もある。この映画を観るのもあえて観た後、1人でこもってナーバスになりずきないようにと私にとってざわついた街、渋谷で観ることにした。
案の定、観た後はなんとも言えない心のざわめきがあったけれど普段だったらうっとおしくて落ち着かなくて大嫌いな人混み渋谷のざわめきが、映画を観た後のわたしの気分には色々考えさせないように邪魔をしてくれるなんともありがたい存在になった。

映画を観て後悔はないし意外と人の優しさなどに触れられた映画で暖かい気持ちになっていた。けれど、やっぱり色々思い出したりなんとも言えない気持ちになった。と同時に、でもそうやってきっと自分があの頃から少しずつ生きやすくなってることを確認したり、今の自分があるのはあの頃の自分や周りのおかげだと改めて振り返ったり、あの頃の記憶が薄くなってくことで生きやすくなりつつあるんだけれど、あの頃のことを忘れたくない気持ちがどこかにあって時たまこうやって自分の心を揺さぶってるんだと思った。

前にブログで自分の備忘録として私の拒食症のことを書いてその後も何回かにわけて振り返えって記録してこうと書いた割に意外と振り返っていなかったので今回、映画を見て入院してた頃とかを振り返りたくなったので自分の備忘録として残しておこう。
(少し映画ネタバレあります)

私は自分が高校1年生だった2009年と高校2年生だった2010年に精神科病院に入院した。
1回目の入院は大学病院で閉鎖病棟開放病棟保護室(隔離室)がある病院だった。2回目の入院は1回目とは違う病院で閉鎖病棟保護室がある病院だった。どちらの入院の際も私は入院を拒んだので医療保護入院という入院の形態で入院することになった。

高校1年生 1回目の入院

1回目の入院直前は約3か月、水だけの生活の上に、過活動の症状で毎晩1時間ランニングと、周囲からは倒れないのが不思議で倒れてくれたら入院出来るのに言われていた。その頃は何を言われても耳には入らず、楽しい事は無く、ただルールをこなすために生かされている感じだった。

家族も私の行動を理解出来ず、孤独が病気を加速させ心拍数が20まで下がり、私の知らないところで入院手続きが済み、強制的に入院(医療保護入院)となった。

入院生活1日目は過活動が止められずひたすら廊下を歩いていた。きっと看護師さんは「そんなに動いてると拘束されちゃうよ」と教えてくれたようにも思うけど歩くことにとりつかれていた私の耳には入っておらずこのまま動いていて入院食も食べないのは命の危険だと判断されベッド上に拘束、女子高生ながらオムツ、そして鼻に管を繋がれ経管栄養の状態、監視カメラ、廊下から覗ける窓、ベッドから動けないにもかかわらず内側からは開けられない鍵のかかった扉と、まるで牢獄のような保護室という部屋に約1ヶ月いることになった。

入院前、食べない事以外にもルールを作り、部屋の物の位置がいつもと違うと落ち着かなかったり、いつものルーチンが1分1秒でも違うとパニックをおこしたり、自分で自分を縛っていて自分でも苦しかった。周りは苦しいならそのルールを手放して普通に生活をすれば良い。そんなに痩せたら命が危ないと心配してくれた。
私は痩せすぎが命に危険を及ぼすのも少し体重が増えても問題は無い事も分かっていて、むしろ入院前、最後の方は体重を減らしたいとは思っていなかった。ただただ1日ルーチンをこなすことが安心なだけだった。

「ルールを手放したら?」など症状に対しての声掛けは風邪の人に「咳を止めてください」や「熱を下げてください」と言ったり、花粉症の方に「くしゃみを止めて」などと言っているのと同じで、ルールを作るのは症状で自分ではどうにもコントロールができなかった。そんなルールを手放せない自分に自信がなくなり、その不安を何とかしようと自分にまた新たなルールを作り余計に症状が悪化していった。

拘束されたことで自分ではどうにも出来ない状況からやっと解放された。やっと止まってくれた。命が助かったと心から思った。そんな拘束開始日は皮肉にも自分の16歳の誕生日だった。拘束され牢獄みたいな所にいる恐怖と同時にほっとしたという不思議な感覚だった。

保護室で拘束中は管から勝手に栄養が入ったいた。脳に栄養が入ったことと何もできない状況になりひたすら自分はどうしてこうなってしまったんだろうとか色んなことをベッド上で空をしか見えない窓を眺めながら1日中考えていた。自分が拒食症である事を少しずつ理解したり、幼少期の頃からの自分をひたすらに振り返る時間になった。自分の好きだったこと、嫌だったこと、一緒にいて落ち着いた人、憧れの人、苦手な人、ずっと引きずってること、楽しかったこと、家族のこと、自分の性格、色々と振り返り自分の事を知っていった。
今思うときっとこの作業は回復の過程で大事なことで今の私にとっても大事な財産になった。

私ってこういう性格だったんだとか全てが過去と繋がっている反面、なんだか新しい自分に出会ったような、命も助かり生まれ変わったような不思議な感覚だった。今の私なら何でも出来るんじゃないかと思うほど世界がキラキラして見えた。
その頃、看護師さんが定期的に巡回に来る度に今までの自分の事や何でこの病気になったのか自分なりに振り返った事を伝えていた。映画の看護師さんもとても安心感があったが、実際ドクターとはほぼ関わらないので私は看護師さんたちとの会話でたくさん助けられた。あの看護師さんたちの安心感、信頼感は不思議だ。そして振り返っているうちに生きたいとか食べたいとか本当に心から思ったし今なら何でも食べられると思った。

その頃からドクターにはしきりに「拘束をはずしてください」「管から栄養じゃなくてご飯を食べさせてください」と訴えていた。
ドクターは今まで食べなかった人が急に食べ始めると体の電解バランスが崩れ死に至ることもあるという説明に加えこの病気はそうやって言って拘束をこっちがはずしたとたんご飯を捨てたり吐いたりするんですと信じてくれなかった。心から「生きたい!」と思っていて伝えればすぐに食べられると思った私にはショックだった。

何度も訴えるとまずは水を1日に一定の量、1週間飲めたら拘束をとく、管を抜く、次に体重がいくつ増えたら筆記用具を部屋で使っていいとか更にいくつ増えたら閉鎖病棟に行ける、また増えたら何時間ベッドから離れていいとか、今思えば摂食障害の特性である目に見えて結果が見える達成感や安心感を利用した行動療法と呼ばれる治療法によりなんとなく体重は少しずつ増えた。

だんだん体重が増えて、保護室から閉鎖病棟へ移れることになった時、私は嬉しさと不安と緊張が入り交じっていた。私は入院する時も隔離室に入る時も必死で抵抗し喚き騒ぎ、看護師さんを蹴ろうとしたりした為、3人がかりで担ぎこまれたので入院した。はっきりは覚えてないが閉鎖病棟の患者さんの視線はとっても感じた。だから保護室から閉鎖病棟に移る時は他の患者さんには「きっとあの大暴れした患者さんとか思われてるのかな」とか色々思い返すと恥ずかしさや不安でいっぱいになった。でも無だった世界からその恥ずかしいとか思う感情が出てくるのも久々でちょっと嬉しかった。

映画の閉鎖病棟でも不安が強くなって一旦落ち着くために保護室に連れていかれた患者さんが閉鎖病棟へ戻るシーンがある。映画の患者さんたちの視線や表情がとっても懐かしかった。少し怯えたような表情、興味津々な表情、おかえりと迎えてくれる、大丈夫と心配そうな表情。

実際私が閉鎖病棟へ移り、病棟のデイルームに出ると同じように、決して軽蔑するような視線はなくここにいていいんだと思えた。
初めて話しかけてくれたのは同じく拒食症の小学生の子で私がデイルームに出てくるのを待っていたらしい。「入院した日ずっと歩いてたでしょ。お姉ちゃん。私と同じ病気?あんなことしたらあっち(保護室)の部屋に行っちゃうよって思ってたらほんとにつれてかれちゃった。あっちの部屋ってどうなってるの?」と純粋に保護室や私に興味を持って話かけてくれた。
その後もいろんないきづらさをかかえここに入院している人と話した。でも根は純粋で、でもちょっと人との関わり方が苦手なだけで普段はとても暖かい人たちだった。精神病院の閉鎖病棟と聞くと、どこか冷たかったり、殺伐とした雰囲気をイメージする人が多いかもしれないが、普段は患者同士も交流するし、お互い助け合って生活していて、誰かを排除する訳でもなくデイルームでは各々落ち着くルーチンをこなしながら過ごしていた。
病院は、ドクターと患者が1対1で関わる訳ではなくむしろドクターとはなかなか会えない。映画で患者同士が様々な形で影響し合って生活していたように、実際も看護師さんだったり患者同士との入院生活の中で壁にぶつかったり、前向きになって動けるようになったりしていった。同じように生きづらさを背負った者同士だからこそ、優しくなれたりもする。実際に家族が面会に来て泣いて荒れまくった時も「お疲れさま」とみんなデイルームで迎えてくれたり、あの小さなデイルームの中にも確かなあたたかな社会、コミュニティーがあった。

1回目の入院中は体重がこのまま戻っていけば治るものだと思っていた。入院中は拒食症のタイプに多い、いわゆる「いい子」を発揮し退院したいがために食事を食べらるようになってからは必ず完食していた。
入院中、体重が増えるうちにこのまま体重がどんどん増えたらどうしようとか不安があったもののそれを言ったら治ってないと思われて退院できないかもと思い、誰にも相談できなかった。幸いにも元々なかなか体重が増えない私は40キロになったら退院というルールに達しなかったものの半年以上の入院は難しいと身長165センチにして37キロという自分の中では安心の範囲内の体重のまま退院となった。
私が病気になった事や弟の不登校などにより母が鬱になり母も家族に内緒で入院手続きを進められ私の退院とほぼ同時に母も同じ病院の閉鎖病棟に入院となった。

退院後の生活

私は父とは元々そんなに話す方では無くそもそも反抗期に拒食症になり反抗期以前の父との関わりがどんなだったかよくわからなくなっていた。その中で退院してすぐ相談相手もおらず、自分のせいで母が鬱になった責任感などから自分が頑張らなければと必死だった。家事をしながら久々に登校という慣れない生活であった為か、いつの間にかまたルールは増えていき、食べられなくなった。退院後定期的に通っていた受診では食べられなくて困っているのにドクターからは頑張って食べないとまた入院だよ。と言われるだけで食べられないから困っていることに対して何も得られるものはなく、退院後も身長165センチに対して37㎏と全然戻ってない体重は一気に減り母が退院した頃にはもう手遅れで1回目とは別の病院にまたもや医療保護入院となった。

高校2年生 2回目の入院

この頃の入院生活は1回目の入院生活のいわゆる「いい子」でいた自分とは違い、ドクターや看護師さんに暴言を吐き、蹴飛ばそうとしたり今思うと人生で一番恥ずかしい。そんなこんなで2回目の入院も即、保護室行きになった。
前回の入院で病院のルールを守り、いい子にしてたのに治らなかった悔しさ、またもや家族が私に内緒で入院手続きをしたショック、前の病院でのドクターへの不信感など何も信じられなかった。

1回目の入院はひたすらに保護室から出たいと思ったのに2回目の入院は誰が来ても口を聞かない、部屋から出てもいいよと言われても部屋から出なかった。むしろ誰ともかかわらないのが安心だった。私がどんなに無視しようと看護師さんは私にかかわり続けた。
ただひたすらに大好きだった中学の頃の吹奏楽部に対してコンクールの応援として千羽鶴を折って日記を書くことだけした。鶴を無心に折っている時だけは心が落ち着いた。

すっかりうつ病から回復した母はこの頃、水島広子さんの「拒食症・過食症対人関係療法で治す」と言う本に出会い、拒食症に対する考え方が変わったようで、どんなに私に無視されようとも暴言を吐かれようとも私の味方でいてくれた。
それが逆にこんなに暴言を吐いたりするのになんでこんなに味方でいてくれるのかついていてくれるのか分からず怖かった。
私にもその本を読むようにと置いていったけれどその頃の私は読む気になれずそのままにしておいた。

千羽鶴が完成した頃、一人で千羽折りきった大きな達成感からか看護師さんが「すごいね」と誉めてくれた時に大好きな中学の吹奏楽の話をした。やっと笑った顔を見れたと看護師さんに言われそんなに笑ってなかったかと思った。
そこから少しずつ自分の部屋から出るようになりレクリエーションに参加するようになった。
1回目の入院は同世代の子や成人の方が多かったが2回目の入院は私以外の患者さんはほとんどおじいちゃんおばあちゃんで高校生の私を孫のように可愛がってくれ何をしても誉めてくれた。1回目の入院とは違うがここにいる患者さんもとても暖かい人たちばかりだった。

そうしていく内に徐々に自信を取り戻し母に勧めてもらってそのままだった本を読むようになった。本を読んだとたん自分の気持ちを代弁してくれてるようなことばかり書かれていてなんでもっとこの本に出会わなかったのだろうと思った。
今思うとこの本に出会ったタイミングも私は運がいいと思う。
今まで体重が増えればなおると思っていたがそれを治るとするなら治るイメージが自分の中で作れなかったし怖さしかなかった。
だけどその本には治る=決して体重が増えることではないこと、食べないとかの症状を無くすことではなく症状がなくても現実世界をそれなりにやっていけるようになることと書かれていた。
食べられないとか食べるとか表面的なことじゃなくてもっと根本の辛さを理解してくれている天使のように思えた。

その本には症状は松葉杖のようなもので例えば足を骨折した時松葉杖がないと歩けない。骨折がなおってないのに松葉杖だけ奪い取ろうとしても必死に抵抗に合うのは当然だと予想できると書かれていた。そして私が一回目に入院していたような無理やり症状をなくすような治療がかえって悪影響になることがあることや今何を感じていて何に不安でその不安をできるだけ減らして自分のペースで安心できる場になったときに自然に症状は手放せると言うようなことが書いてあった。

その本には拒食症を治すというよりこれからの私の人生をもっと生きやすくするために大切なことが沢山書かれていた。今でもこの本は宝物だ。この本を読んだあたりから治したいと言うよりうまくこの拒食症と付き合っていきたいと心から思うようになった。

幸い、2回目の入院中のドクターは沢山話を聞いてくれる人だった。今でも3か月に1回このドクターと話している。入院中、どくたーは学校に戻るのに何が不安か話を聞いてくれた。私は皆が集まる場にはご飯がいつもあること、その中で食べない事でのり悪いとか思われるのが嫌なこと、他にも人の目がとても気になることを伝えたりする中で、私は「みんなに先にこの病気のことや自分の事をカミングアウトできたら人の目を気にする不安が減るかも」と答えをだし退院して登校初日に担任の先生に時間をつくってもらいクラスの前で自分の病気のこと、人の目が気になることを素直に伝えた。

実際、伝えると思っていたより皆は気にしてなかったり逆にどうしたら一緒に遊べるのか考えてくれた友達も出てきたりした。

自分自身が何とかしたいと思う心と周りが受け止める力

映画で入院していた患者が自分の意志で退院を決意する場面がある。

2回目の入院で私が明らかに違ったこと、自分自身が今の状況から何とかしたいと思ってから劇的に変わった。
自分がどうにかしたいと主体的にならないと、いくら周りがよいしょと持ち上げてくれても自分のものにはならない。
そして私自身、母や主治医、クラスメイト、担任の先生、他にも色んな人が病気をカミングアウトした時にそれでも人として受けとめてくれた事がなによりも次のステップに進む糧になった。

映画で退院を決めた患者も色んな患者さんや看護師さんに受け止めてもらいながら、ある患者の為に自分が出来る事を考え退院を決意した。
退院するとき看護師さんが「ダメだったら帰ってきていいんだよ」といった言葉が印象的だった。

今の世の中はなんだか先急いでいてとても私には生きづらい。いったん決めた人生の道から違う道に行く時にはすごいエネルギーを使うし、ちょっと休憩したい、立ち止まりたい時に行き場がなかなか見つからない。私はふとたまに、また精神科病院に入院したいなと思う事がある。精神科病棟は世の中から遠ざけられているけど実は優しさに溢れてて暖かい場所なんじゃないかとたまに思う。
精神科病棟でなくてもちょっと立ち止まりたいときに追いつめられる前に行ける場があると良いなと心から思う。