logbog 旅するように生きる

1993年生まれ。高校生で摂食障害発症。今も自分の心地よい生き方を模索しながら小規模多機能居宅介護施設で作業療法士してます。

ケアすることで人の自尊心を傷つけている。

私の職場(小規模多機能居宅介護)の施設は団地の一室にある。そこに通ってくるじーちゃんばーちゃんは介護保険を使っている人が主で、市内の色んなところから通ってくるし団地に住んでる人もいる。

つい最近の団地に住んでるばあちゃんとのコミニュケーションでこれで良かったのかずっと私がもやもやししているものがある。

そのばあちゃんは職場と同じ団地に住んでいて身体的には年相応の能力で自分で歩いたりすることはできるが統合失調症アルコール依存症、買い物依存性、そして認知症という精神疾患がある。
利用当初は旦那さんに暴力を振るったり怒鳴り散らしたりだったがここ最近は症状も落ち着き穏やかで普段は職場の皿洗いや洗濯を干してくれたり明るく姉御肌で一部分だけ切り取るとなんでこんな元気な人が要介護なのかと思う人もいると思う。(ここまで落ち着くまでには5分おきに私たちが家に訪問したり丸1日マンツーマンでその人につきっきりだった時期があったり信頼関係を築くまでにとても時間がかかった。)

だが今でも一度不安のスイッチが入ると旦那さんを叩いたり事業所に通いに自分で来ては子供やスタッフに怒鳴り散らしてそれがおさまるまでマンツーマン対応になる。

私の職場はまだ新しい事業所で出来て4年の会社で私は学生の頃に開所準備からここでアルバイトをしてそのまま就職した。新卒で就職したのは私一人でいつまで経っても一番長くいるが年下のまま4年が経った。この4年の間、開所メンバーはほぼ辞めてしまい開所からいる現場のスタッフは私をいれて2人になった。

さっき書いたばあちゃんは10分前の記憶もなくなってしまうくらいの記憶力だがいつもと違う空気感や相手の感情を察したり感じる感性は人一倍強い。

だから誰だかわからないけどスタッフがなんとなく変わっているのはわかっている。そして不安なことを聞いてすぐ答えられるスタッフがどの人かも自分でわかっているので最近は私ともう1人の開所メンバーご指名で話に来る。

季節の変わり目に衣替えをすることが習慣のこのばあちゃんは自分が衣替えをして洋服の場所を変えているのだけれど移動したことを忘れてしまうので、探してるものがないと「誰かに盗まれた!」スタッフの誰かが夜中に入って盗んでるんだろう!」とすごい剣幕と大声で怒鳴り混んで来る。
今年もその衣替えの季節がやって来てついこの前もすごい剣幕で怒鳴り混んできた。
他の利用者さんもその声にびっくりしていたのでまずは家の様子をみたいことを伝え家に一緒に行った。

いつもだったら私は感情が収まるまで傾聴してすべてばあちゃんの意見を受け止める。けれどここ最近の波が大きいと感じていた私はこれ以上妄想を広げて新しいスタッフが犯人扱いされてもあとあと入れるスタッフが限られてしまったりそもそもスタッフが誰も入れない状況になってしまいそれはお互いハッピーではなくなってしまうと判断した。

私はばあちゃんが怒鳴っている途中で同じくらい大きな声で
こっちのスタッフは誰も入ってないしそこを信用してくれないと私たちはこれからサポートできなくなってしまう。うちのスタッフに物を盗むようなスタッフはいない。ものが無くなってる気がする不安はわかるけどこっちは入っていないからこっちもどうして良いか困ってるから落ち着いてこれからどうするか話そうと伝えた。
するとばあちゃんはもっともっとすごい剣幕でもっともっと大きな声で
若いくせに生意気だとかこっちは金払ってるんだどうにかしろとかここには書けないような罵声を発した。
そんなような言い合いを何回も繰り返しているとばあちゃんは突然「あー久々にこんなに大きな声だしてスッキリした」と清々しい表情で笑った。ばあちゃんは「ごめんな。私もボケてるからなわからないんだよ。でもなんか物がかき混ぜられてる気がするんだ」と弱気な声で話し始めた。
私はそこから傾聴に切り替え、昨日と部屋の様子は変わってないことを伝え、ないと言ってたものを探し見つけ衣替えをして移動したのかもねと伝え、私も人間出来てないから怒鳴ってごめんね。でもスタッフのこともおばあちゃんのことも信用してるからつい声を大きく感情的になってしまったこと伝えると
ばあちゃんは「私も言いすぎたごめんな。」
と話し始めた。
最後はお互いハグして今日も1日よろしくね。とことは終った。

ばあちゃんと感情で本気でぶつかってなんか嬉しかった反面、私のコミュニケーションは対等だったのかもやもやした。
ばあちゃんは自分がなんとなく最近忘れっぽいこともわかっていてどこにやったかわからない不安が怒鳴るという症状で表現され私に怒鳴ることで不安を訴えていた。
不安をもっと受け止めるべきだったのか。

他のスタッフにその事を話すと
スッキリしたと言ってるしそのコミュニケーションはあなたとばあちゃんの信頼関係でしか成り立たない。と言われた。
ケアとして良かったのかわからないけど
スッキリしたと言ったばあちゃんの気持ち良さそうな表情に私は救われている。

と同時に
ケアは人を傷つけると最近よく思う。
ケア「されている」「世話になっている」
それだけでじいちゃんばあちゃんの自尊心を傷つけている。
今回も物が見つかったことでばあちゃんは安心したが同時にそのばあちゃんはきっと私が移動したのかもしれない。私がボケてるのかという自信の低下のような気持ちも味わっていると思う。

こどもと話してて感動すること

今日の夜から広島に旅立つのに夜行バスを待つ間の時間で何か書きたいなぁと思ったので今日感動したことを書こうと思う。

私の職場は小規模多機能居宅介護という介護施設だけれど介護をしたくてこの施設を作ったわけではなく介護をツールにその町に暮らす人と一緒にみんながそこそこhappyに生活することを目指している。

なのでスタッフのhappyも大事にする。このGW中(それ以外も子供は出入りしてるけど)保育園が休みで子供がいても働けるように子連れ出勤でもOK。

今日はスタッフの子供の女の子で5才の子が朝から遊びに来ていた。いつもと違い今日は保育園に行くときにつける名札をつけていた。なんで名札をつけてるのか聞くと「だっておばあちゃん、おじいちゃんたちいつも名前聞くんだもん。こうしてれば私の名前わかるでしょ。」って親に言われた訳でもなく自分で考えてつけてきたらしい。

私は認知症という勉強をしてるわけでもない5才の子が自分でおばあちゃん、おじいちゃんと関わる中で考えて行動してることに感動した。

そしてそのお母さんと話していて感じたこと。
本当はその名札を持って帰るのは保育園のルール的にはダメで保育園に置いておくものらしい。なのでそのお母さんは今日、職場に来たときになんで名札を持って帰ってきたの!と怒ろうとしたらしい。
でもその理由を聞いて、怒る前に子供にもちゃんと理由があるんだ。それを聞かずに怒ろうとしていたと「はっ」とさせられたと言っていた。

私も子供だけでなく色んな人と関わっていて自分の価値観で決めつけてしまうことがあるけど気を付けようと改めて思った。

先日職場の本棚で見つけた
開幕!世界あたりまえ会議
という本でもいかに自分の価値観の中で生きているかをはっとさせられた。
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さて夜行バスが来たのでここで終わりにしよう。

THE ABSENCE OF TWO

昨夜、久々に38.5度という高熱を出し、昨日のうちに会社に連絡を取り今日は休みにしてもらった。今日、朝起きると頭痛はあるもののすっかり熱は下がった。

普段、寝る前の夜の数時間しか自宅にいない私は家で1人で安静にしているのがどうも落ち着かないのでこれを書いて心を落ち着かせようと思う。

 

先日、職場のパートさんがお気に入りの写真集を貸してくれた。

 

「THE ABSENCE OF TWO」

その写真集は写真家 吉田亮人さんが従兄弟と祖母を取り続けた中でできた写真集「THE ABSENCE OF TWO」という写真集。

もともと小学校教師をしていた吉田亮人さんは小学校教師を辞め写真家の道を選んだ。写真家として活動し始めた翌年、宮崎に帰省した際に大好きな二人にふとレンズを向けシャッターを切り始め写真を撮り続けた。1928年生まれの祖母、雪見さんと1990年生まれの孫、大輝さんの宮崎の田舎町で繰り返される日常。

 

この写真集を見ていて私は小説を読んでいるようななんだか不思議な感覚になった。

写真1枚1枚には何のコメントもない。写真のあとに書き綴られるエッセイ。

読んでいくうち、写真を見返す度、私は吉田さんという人にも興味を持ち始めた。

吉田さんが取材を受けた記事に写真家になった経緯や思いが書かれていて余計に好きになった。

 

note.mu

 

1928年宮崎県国富町で生まれた雪見さんは物心つく頃から家の手伝いや農家の手伝いをしながら戦前、戦中時代を生き延びた。戦後も日雇いなどをしながら貧しい生活を送ってきた雪見さん。そんな頃、当時何の娯楽もなかった国富町に大衆映画を上映する一座がやってきた。その一座の中の中にいた1人と雪見さんは結婚し旦那さんの仕事を手伝うため宮崎各地を転々としたのち大分県湯平町に移住、その日、その日を暮らしていた。その後、雪見さんの母の介護の為、大分で築いた仕事や生活のすべてを置いて国富町へ帰郷。雪見さんの母が亡くなった後も2人の国富町に住み続けた。2人の子供授かり貧しい生活の中、必死で働き、子供を育て生きてきた雪見さん。

 

一方大輝さんは4人兄弟の3男として宮崎県国富町に生まれ、地元の保育園、小学校、中学校に通い、高校は自転車で毎日片道1時間かけて県内有数の進学校に通い卒業後は看護大学で勉強しながら保健師を目指していた。

大輝さんの家族は雪見さんと同居していたので大輝さんにとって雪見さんは身近な存在で、大輝さんが物心ついた頃にはおばあちゃんである雪見さんの部屋でいつも過ごす程のおばあちゃん子だった。小学校に上がってからは6畳1間の雪見さんの部屋に勉強机をおき本格的に雪見さんと生活し中高もそれが当たり前の光景であった。

 

大輝さんは大学入学してすぐ、雪見さんのもとを離れ大学の近くで1人暮らしを始めた。バイトと勉強で忙しく雪見さんのもとに帰る事は少なくなった。そんな生活を1年間続けた大輝さんは次第に大学から足が遠のくようになった。生活費と学費の為のアルバイト以外はひきこもる生活が続いた後、ある日、自転車とバックパック1つで宮崎を出た。色んなものを引きずりながらもそれを振り払うように自転車をこいで日本各地を1人駆け回った。旅の間、誰からの連絡も受けず、誰にも連絡しなかった大輝さんだがただ1人雪見さんだけには近況を報告していた。お金がつき約2か月で終えた旅の後も大学に足が向くことなく大輝さんは雪見さんの部屋に戻ってきた。

2年ぶりに雪見さんとの生活を再開した頃、大輝さんは同級生たちが大学3年に進級し新し挑戦をしていく姿を横目で見ながら、留年。それでも、少しずつ大学に行きはじめ後れを取り戻した。

そんな年の夏、雪見さんは倒れ腸捻転症で入院した。1か月の入院を経て大輝さんに付き添われ自宅へ戻った。退院後も腹痛が治まらない雪見さんは鎮痛剤をほしがり、薬のおかげで一時的に痛みは治まるが副作用も強く、意識はもうろうとし、体もやせ細りいつ死んでもおかしくない状況で気が強くはきはきと物事を言う雪見さんの姿はどこにもなかった。そんな弱っていく雪見さんの姿を目の当たりにした大輝さんは今まで自分の言葉かりでおばあちゃんのことなんて何にも考えてなかったことに気づいた。そして大輝さんは雪見さんの手となり足となり暮らした。鎮痛剤の服薬を続けることで認知症になったりや体力が奪われていくことを考えた大輝さんは鎮痛剤を隠し服薬をを止めさせた。激しい痛みのあまり「薬を飲ませろ」と怒鳴る雪見さんと負けじと薬を渡さない大輝さんの2人の本気の喧嘩の日々。大輝さんの根気強い看病によりいつ死んでもおかしくないと言われた雪見さんは畑仕事に行けるまで回復した。

 

写真を撮り続けた吉田さんと大輝さんは10個年が離れている。

吉田さんは雪見さんにとって初孫。吉田さんが小4の時に大輝さんは生まれた。吉田さんの両親は中華料理屋を宮崎で営み、両親の仕事が忙しい時はよく雪見さんの家で過ごしていた。雪見さんは孫たちをとてもかわいがっていた。吉田さんが中学になりそのころ入れ替わるようにして幸美さん夫婦は大輝さんの面倒を見始めた。

祖母である雪見さんに育てられた大輝さんはいつしか祖母を支える側に。

 

この写真集は大輝さんと雪見さんしか映っていない。でも大輝さんと雪見さん、吉田さんと雪見さん、大輝さんと吉田さん、この3人で過ごした時間が沢山詰まっている。

何気なく過ぎていく、何でもない日常。でもきっとかけがえのない2度と戻ってこない時間。大輝さんと雪見さんの2人の暮らしに流れる幸せな時間をたくさん感じる写真だった。

 

写真集のエッセイの中で吉田さんは

そう遠くない将来訪れるであろう祖母の死。それをもってこの物語を終えようと思い始めたのはいつの頃だっただろうか。写真家として、1人の孫として、その日が来るまでカメラを向け続け、この何でもない日常を記録し、物語を編もう。

 と決心したことが書かれていた。そう決心して3年。

ある日、「学校いってくるわ」そう雪見さんに声をかけたきり姿を消した大輝さん。

雪見さんは待ち続けた。約1年後、山の中で遺体となって大輝さんは見つかった。

遺書もなく理由は不明のまま。自死だった。

そしてその1年半後、雪見さんは昼寝をすると言って横になったまま永遠の眠りについた。

 

人は有限の時間を生きて死ぬ

吉田さんは取材を受けた記事の中でこの写真集について

従兄弟の自死は一番見てほしいことじゃないんです。それはひとつの事実ではありますが、もっと大切なのはふたりが有限の時間をどう生きたのか、そこにどういう愛があり、関係性があったのか。ふたりの時間を僕自身はしっかり写真で紡ぎたかったし、そこを見てほしかった。

と言っている。

私は今、介護の仕事をしていて、一番楽しいのは色んな人生にかかわれること。

どのじいちゃんばあちゃんの人生の話を聞いても波瀾万丈。そしてそんな話を聞いているとありのままの自分でいいんだと思える。私は「死って怖い」と小さい頃、思っていた。今も思っている。死んだ後のことを考えると怖い。何が待っているかわからない。得体のしれない怖さ。でも人はいつか死を迎える。もしかしたら明日死ぬかもしれない。

 

私の知人は人間には2つの死があると話していた。

1つは個体として消える死。もう1つは世の中の記憶から消える死。

身体は死んじゃっても周りの人の記憶の中には生き続ける。

そう思うとたった1日の死ではなくそれまでの生きている時間にフォーカスを私は当てたい。

 

写真の持つ力

私は過去の写真を見返すのが大好きだ。写真は時間が経ってから見返した時、価値を発揮すると思う。言葉だけでは足りない思い出も蘇る宝箱のような感じ。おぼろげな記憶でなく確かに手に取って感じることが出来る。利用者さんが亡くなった後に遺品を整理してると写真が見つかり見せてもらうことがある。その家族はそのころに戻ったように色んな話を聞かせてくれる。私は今、友人と過ごしていた時に撮った写真をコルクボードいっぱいに貼って部屋に飾っては眺め、時たま思い出に浸っている。これからもこの写真を大事にしたいしいつか家族ができたときにそんな思い出を語れたらしあわせだなあと思う。

 

生きてる意味って

写真集のエッセイの中で大輝さんがなくなった後、雪見さんが

「生きてる意味なんてねぇ。生きてる意味なんてねぇ」とつぶやいている姿が書かれている。

「生きてる意味ってんだろう」

何人かの友達にたまにそう聞かれる。

この写真集のタイトル「THE ABSENCE OF TWO」直訳すると「2人の不在」

大輝さんと祖母がいなくなった後、吉田さんのもとに残った2人の写真。なんでもない2人の日常。いなくなった2人と写真を通して吉田さんが2人と対話し生まれた写真集。

こんな風に写真が残っていたり、語り継がれて生きた証が残り続ける中で新たな大切さに気付けたり失ってから気づくことも多いんだろうなと最近は思う。

この前見た映画の中で

「人生って何かを獲得する事のように思うけど本当は人生って失っていくものなんじゃないかなって思うの。その失い続ける中でそのたびに本当の自分自身を発見していくんじゃないかな」

というセリフがあった。

生きてる意味も人生の正解とかもよくわからない。

大輝さんが亡くなった理由も分からない。

23歳。大輝さんにはまだこれからたくさんの時間があったかもしれない。

でも私が写真集を通してみた大輝さんが生きてきた23年間はとても濃く魅力的な時間に思えた。

 

私は最近毎晩寝る前に聞いている曲の最後の歌詞が大好きだ。

制限時間はあなたのこれからの人生。

解答用紙はあなたのこれからの人生。

答え合わせの時に私はもういない。

だから採点基準はあなたのこれからの人生。

「よーい、はじめ」

 人生まだまだ分からないことだらけだけどマイペースで進んでいこう。

www.youtube.com

 

朝のミーティング

昨日、朝のミーティングで話していて気づいたこと。

私の職場ではここ最近、朝のミーティングで毎回何かみんなが知っている物を置き、その物に対して1分間は斜にかまえ、もう1分間は斜にかまえずに意見や感想を言う場を作っている。
dailyportalz.jp
この時の「斜にかまえる」は「物事に正対しないで、皮肉やからかいなどの目で見ること」の意味合いで職場では共有されている。(元々の語源の意味とは違うらしい。)
eigobu.jp
つまり1分間は皮肉めいた目でその物を見て、1分間は自分に素直に感想を言ったり肯定する。

私の職場では自分達も含め職場のある地域の人がみんなそこそこhappyに生活できることを目指し、正しいを固定化させずallways whyで最適解を更新し続けることを理念に掲げている。

なので職場では専門職の前に1人の人としてみんな、お互いの価値観や常識を言い合いながら受け止めながら悩み、話し合うことが多い。

今回の「斜にかまえる」ことについてもその延長線上で自分の常識にとらわれず物事を色んな視点で見ようという意図があるのだと私の中で理解していたし、良いことだなぁと思っていたけれどなぜか私はその雰囲気がしんどかった。

旅に出て自分と会話したり、色んな本や映画をみて自分の大事にしたい価値観を知ることで少しずつその違和感の正体がわかってきた。

昨日はラッピングで使うリボンをあるスタッフが持ってきてそのリボンに対してまず斜に構えた意見を出しあい次に斜に構えず意見を出しあった。
他のスタッフは全員意見を出していたのにやっぱりしんどくて私は何も意見を出せなかった。

終わった後、ファシリテーション的存在の1人のスタッフは「小規模のスタッフは斜に構えると意見出にくいねー。(私の職場は小規模多機能居宅介護と訪問看護ステーションがある。)」と言った。

私は意見が出にくいのにはきっとそれぞれ理由があると思うし、ひとまとまりにされるのが嫌で、その時、私はこの場がしんどい事を伝えた。
何がしんどいのか聞かれ、自分でも言語化出来るか自信はなかったけれど意外と言葉はつまらず出てきた。

その時、前提としてこの場が色んな視点で物事をみようという意図は理解していてそれに対しては大事なことだしみんなで話せるのは嬉しい事を伝えた。

でも斜に構えると言う言葉がよくわからなくて色んな辞書やネットで「斜に構える」=「皮肉やからかいの目でみること」と書かれていて実際、話し合いの場でも馬鹿にしたような上から目線でみんなが目の前の物に対して意見を言っている雰囲気が耐えられなかったことを伝えた。

わざわざ馬鹿にしたような言い方をしなくても物事を色んな視点からみる事は出来るし、そもそもこの物を見てみんな感じ方が違うのだから斜に構える構えないと分けなくてもみんながこの物に対してはどう思うかを言い合えばあぁこの人はそういう見方をしてるんだとか気づけていいんじゃないかと思ったことを伝えた。

その理由として私は小さい頃から人も含めてどんなこともその人の一面としかとらえられなくていい悪いのジャッジができないことを伝えた。長所は短所にもなるし短所は長所にもなり得る。だから何が斜に構えるで何が斜に構えないのかがよくわからないことを伝えた。

ここ最近、朝、みんながその物に対して上から目線で発する言葉を聞き、その言葉を浴びた後に私の頭のなかはモヤモヤでいっぱいになり、しんどくて仕事に行きたくないと思うことが多くなったことを伝えた。

伝えるとなぜしんどいのか聞いてくれたスタッフは「いつもは話し合いの時に意見を言うのに毎回、何も意見を言わないし明らかに不服そうな顔してるから何かあるんだろうなぁと思ってたけど早くいってくれたらいいのにー。そっか。それはしんどかったねー」と受け止めてくれた。
そのスタッフもそもそもこのメンバーでこのやり方がほんとにいいのかもわからないんだよねと打ち明けてくれた。
その後、具体的にこれからどういう場にしようとは決まらなかったけれどお互いのしんどさや悩みを打ち明けられ、良い場に私はなったと思う。
と同時に他のスタッフは多少納得がいってなかったり違和感を感じていても折り合いをつけながらその場に参加していたし、私も仕事の中で全部を話し合うのはしんどいので事柄によっては流すことがあるのに、今回、自分の中で納得がいかないとどうにもその場に参加できなかった私はどんな人やものでも対等でいたいとか、自分に素直に生きたいとかそういう軸はぶれたくないからだろうなと改めて知ることができた。

反面、この「斜にかまえる場」に対して私は斜にかまえていたのかもしれないとも思う。

青春18きっぷの旅。安曇野 穂高。

3月は父が仕事中に意識消失して倒れたり、祖母が危篤状態となったり、そのストレスから母が体調不良と出来事が色々と重なった。そうなると実家から呼ばれ私が家事をしたり喧嘩や嫌味ばかりを言い合う両親の間に入って会話をする事になりエネルギーをだいぶ吸われる。

 

そして人混みの都内に出ることも多かったり職場のママさんが春休みの子供を連れて出勤してきていたり楽しいことでもあるんだけれど私にとってはいつもより刺激が多く、いつもは大好きな職場のばーちゃん、じーちゃんの声も避けたくなる程だった。

 

毎年この春の季節は新しい別れや出会いなど環境の変化に心がざわつくので、4月の頭は連休を取り青春18切符の旅に出ようと思っていた。けれど家族のことがあったので諦めていた。でもさすがに自分の体調に支障がきたし睡眠不足が続き仕事も自己防衛を張り、スタッフにも雑な態度しか取れなくなっていて余計に自己嫌悪に陥り負のループにはまってしまったので、いったん離れたい思いが強くなり急遽、行く2日前に行き先を決め写真の雰囲気とカナダ好きの夫婦がオーナーということだけに惹かれ行き先とペンションを予約した。

安曇野 穂高

今回の行先は穂高駅周辺。朝5:30頃に辻堂駅を出発

茅ヶ崎駅から橋本、八王子、高尾、甲府、松本、と乗り継ぎ穂高へ。

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穂高駅到着


穂高駅に到着するとお兄さんがレンタサイクルの案内をしていたので自転車を借りることにした。

レンタサイクルのお兄さんに「どこ行くの?」と聞かれ私は泊まる場所だけ決めていてあとは「良い景色見て、おいしいもの食べて温泉は入れればいいかなあ」と話すと、ノープランでここまで来たことに驚かれた。そして女子1人なことにも驚かれた。

「ほんとに人いないから。道迷ったりなんかあったら電話して。リュックもペンションに届けてあげようか?」とめちゃくちゃ優しいお兄さんだった。

www.shinano-an.com

お兄さんに穂高温泉郷を勧められ宿の近くだったのでひとまず温泉郷までサイクリングをすることにした。普段から毎日のように12キロほど自転車をこいでるので自転車移動に不安はなかったけれど、意地を張らずお兄さんの言う通り電動自転車を借りていてよかった。風が強いうえに上り坂。でもほんとに人がいなくて山を目の前に最高な景色を独り占め出来た。

穂高温泉郷

観光客もまばらでとても心地好い場所だった。

北アルプス牧場や安曇野アートヒルミュージアム、カフェを巡り、途中自転車おいてちょっと外れた山道を登ってみたり自分の気になるものを見つける度に寄り道をし思うがままに温泉郷をうろうろした。 

足湯とともに日暮れ

ペンション近くの八面大王足湯で日暮れをただただ眺める。

私にとっては最高に贅沢な時間。足湯のすぐ目の前にあったしゃくなげの湯で温泉に入り時間も気にせずゆっくり身体を暖めた。

ペンションメープルリーフ

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宿泊したペンションメープルリーフ

オーナーのおじさんは私の地元湘南出身で奥さんと息子さんで経営していた。

私の地元の話や仕事の話を聞いてくれたりリビングで読書してるとワインを出してくれたりなんだか親戚のおじちゃんおばちゃんの家にきたみたいだった。

一緒に泊まっていた小学生連れの家族はこのペンションの常連らしくかれこれ10年近く通っているそう。

その家族のお父さんは私の大好きな奈良で神社の神主さんをしているそうで沢山話をしてくれた。そしてなんと私の大好きな映画「あん」の監督 川瀨直美さんがその神社の映像を撮っていたりその家族は川瀨直美さんとごはんに行くほどの仲だそうで川瀨さんの映画が大好きな私は一気にテンションが上がりお互いであんの大好きなシーンなどを話して意気投合した。 

スープカレーハンジロー

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ペンションの朝ごはん

次の日、その家族とペンションでまったり朝ごはんを食べ、成り行きでお昼も一緒に食べることになった。

大人気で行列ができるスープカレー屋さん ハンジローに「先に並んどいてあげるよ」と先回りしてくれた一家のお陰で混む前にカレーにありつけた。

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スープカレーハンジロー

ほんとに、素敵な人に毎回出会える私の旅運の良さには感動する。

連絡先も交換しこれから私はますます奈良に行くことが増えそうだ笑

家族とお別れし、碌山美術館穂高神社、大王わさび農園を巡り穂高を出発。 

旅のしめくくり

そのまま帰ろうかと思ったけれど前回の青春18きっぷの旅で忘れられない立石公園からの諏訪湖を見たくて上諏訪で途中下車。駅から30分ほど歩いて立石公園に向かう。

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かたわれ時の立石公園

3時間くらい立石公園でひたすらぼーっと過ごし日暮を眺める。ベンチでゴロゴロしながら空を見たり読書したり。

最後は片倉館で貸切状態で温泉に入り最高な旅のしめくくりになった。

 

私にとっての旅。 

私にとって、刺激が多かった3月。家族と久々に長い時間関わったり、職場で新しい取り組みが行われたりいろいろなことがあって毎日を振り返る時間がほしかったけどなかなか取れず目まぐるしく毎日が過ぎていった。

 

私は新しい経験などをした後にその刺激や情報を1人で振り返る事が好きで、その中でその経験が過去の体験と繋がっていたり、繋がっていなくても未来で繋がったりするのが面白い。私の心の中に世界や自分自身についての大きな心の地図があるかのようで繋がる度、意味のない事なんて1つもないんだと感じる。私は自分の世界観や価値観を揺さぶられるような体験をする度、そんな心の地図の色んな箇所が頭に浮かんで繋がり心や頭が満杯になる。そういう時私は1人で過ごし自分と会話し満杯の情報を言語化して外に出す必要がある。

月1旅をしているとストレスたまってるねとか友人たちが時々私を心配してくる。でも私は単に時々1人で景色を眺めたり自然の中でゆっくり過ごしたり、ボーっと散歩したいだけ。そうすると自分自身や私の周りのことについて理解を深められ日々、言語化できなかった違和感がすとんと腑に落ちる。

 

今回の旅も何をしたと言えばいい景色を目の前に散歩やサイクリングをしながらぼーっとしただけ。その中で適度に人とかかわり人の優しさや価値観に触れた。

その中で仕事で違和感を感じていたことを言語化出来たり、避けていたおばあちゃんへの思いに気づけたりたくさん自分と会話した。満たされた。

これからもこんな時間を大事にしていきたい。

これだから旅には中毒性がある。

 

東北の 復興願う 春の昼

東日本大震災から8年がたった。
今年は地震があった時間、職場の利用者さんであるおばあちゃんとこの記事のタイトルの句を含め色んな俳句を作っていた。
去年の今ごろは牡蠣にあたり1人部屋で寝たきりになっていて部屋のなかを歩くのもままならないほどで当時のことを思い返すとかそんな余裕はなかった。でも今思うと私はこの地震がなかったら今、出会っている多くの人に出会っていなかった。
そう思うと人との出会いや繋がりは本当に不思議。

2011.3.11

あの日、私は高校2年生、拒食症真っ盛りだった。
学期末だったのもあって授業は午前で終わり午後はたまたま月一回の
スクールカウンセラーが来る日でカウンセラーの人と放課後話していた。
その頃は今の状況から抜け出したいという気持ちと変化などの恐怖との葛藤中だった。

当時、神奈川の大船の近くにある高校から自宅の茅ヶ崎まで毎日歩いて帰っていた。
入院中もただでさえ増えなかった体重はほぼ食べてない上に過活動の症状で減る一方だった。

不安を人に話すといくらか勇気を出してみようと思えるようになっていたその頃の私はその日、カウンセラーの人に今日は学校から大船駅までは歩くけど大船からは電車に乗ってみると宣言してやる気満々だった。

14:46

私はちょうど駅前についたところで大船観音の真下にいた。
www.oofuna-kannon.or.jp

地震とは思えない今まで感じたことのない揺れ方だった。
当時、周りのみんなにそんなに痩せてて貧血もめまいも起きないの?と不思議がられていた。私は地震が起きたとき、地震だとは思わず「おお。これがめまいってやつかな」とのんきに思っていた。
しばらくするとそれは治まりとりあえず駅に行こうと歩いた。
駅につくとそこは電気が全くついておらず、駅ビルは真っ暗で「皆さん出てください」と警備員さんたちが叫んでいた。これはただ事じゃないとやっと気がついた。
駅の液晶画面は津波の映像が流れていた。映画のワンシーンを見ているようで、改札の前にいるひとたちはみんな「これはどこ?」「日本なの?」など混乱状態だった。

当時の私はこんな状況でも自分のことしか考えられなかった。
毎日ルーチンの中で生きてた私は一気にいつもと違う状況にたたされ不安で仕方なかった。
唯一の救いは地震により電車が止まりいつものルーチン通り家まで歩けたということ。
とにかくいつものルール通り18:00までには家につかなきゃその思いで必死に歩いた。
その日は母と弟も大船にいた。今だったら私は母と弟のもとにいったかもしれない。けれど自分のルーチンを崩さないことが第一だった私は母と弟と電話が通じないのを不安に思いながらも津波警報の鳴るなか海に近い家まで必死に歩いた。

普段と違いサラリーマンやOLさん色んな人が歩いていてなんだか寂しさは少なかった。
家につくと誰もいなかったけれど18:00に間に合った私はそそくさと自分が安心できる食べ物少量で夕飯の準備を始めていた。母は私のルールの時間に夕飯が間に合わないと18:00過ぎに必死に帰ってきた。母と弟はエレベーターに閉じ込められていたらしく私がそこに母たちの元にいっていたらルーチンは崩れてもっとパニックだったと思う。
その日の夜はずっと津波警報かなっていたけれど避難する人は見られなかった。海から近い我が家もそのまま津波警報の音を聞きつつ日常を過ごしていた。

私の社長

私の会社の今の社長はその頃、大きなリビリテーション病院で理学療法士として働いていが震災が起きてすぐ病院で働くのを辞め、現地でボランティア活動をしていた。
社長の母親は日本では大きなボランティア団体の代表で社長は息子だったのもあり現地で各ボランティア団体や物資と支援を必要としているひとを繋げるコーディネーターのような役割をしていた。

そんな中で社長は「人の欲求は無限大でいくら必要な人やモノをつないでも、課題解決はせず、つないでもつないでも終わらない。エンドレンス」「外から支援するほど、個々の横のつながりが薄くなり、住民が依存的にすらなってしまう」感覚になることがあったそうだ。終わることのない「支援」に身体・精神とも極限まで疲弊した社長の結論は、
「災害時だけでなく、普段から強固なネットワークを築かなければ、いざというときの助け合いは難しい。」ということだった。

私が今働いている会社は団地の一室にあり小規模多機能居宅介護施設という施設だけれど介護をしたくて社長はこの会社を作ったわけではない。
小規模多機能をツールとしてその地域の人がそこそこhappyに生きられることを一緒にしていきたいと思っている。

社長は地震がなかったらもしかしたらまだ病院で働いていたかもしれないし今のような仕事はしていなかったかもしれない。

私は今の社長に出会う前後で社長の仲間の色んな大人に出会った。
それは摂食障害からの回復にとても重要だった。
私の社長の周りの人間はみんな自分の夢をわくわく語ったり、自分の人生の失敗談や楽しかった話をしてくれたり色んな経験をしてる人がたくさんいて今までの私の価値観が壊された。
摂食障害の私もそのまま認めてくれた。その輪の中にいるとなんだか少し悩んでることがどうでもいいと思えるようになった。そして自然とその人たちといたいからと自分のルーチンを手放すようになっていた。症状よりわくわくが勝った。

きっと震災がなかったら私は今のような仲間には会えなかったし摂食障害の回復にも時間がかかっていたと思う。

震災はとても多くの人に傷を与えたし今も苦しんでいる人がいる。
私にははかり知りえない恐怖やトラウマを現地の人には与えたと思う。
そういう方たちに対しては失礼なのかもしれないけれど、きっと多くの人が震災を気に色々なことを考え、行動するきっかけになったと思う。
人生は紙一重の世界だと思う。明日は自分が窮地にたたされているかもしれない。
でもそのしんどさは絶対ずっとは続くわけではないと思う。

震災から8年。
1年前と比べると私はそんなに変わっていない。でも8年前と比べると大分生きやすくなっている。震災で大きな傷をおった人たちも少しずつしんどさが溶けていったらと思う。

空しか見えないね。

1月に奈良に行った時に友人にとても心惹かれる場所に連れて行ってもらった。

「奈良少年刑務所

3日間の奈良の旅で色んな景色を見たけれど一番印象的だった。駅からそんなに離れていない道を歩き坂を登ると突如、住宅街から現れた煉瓦の高い壁で囲まれた西欧的な建物。今までの私の奈良のイメージ「古都奈良」とはかけ離れた、でも、とても立派で、美しくて、見惚れてしまう建築物だった。

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奈良少年刑務所

 

初めは刑務所だと思わなくて友人から刑務所と聞き、中で暮らしていた人のことを考えたりしてなんだか複雑な気持ちになった。そしてなぜか自分が精神科の保護室に入っていた時の事を思い出した。

私は建築物にとても感動したけれどその凄さや感動を表現できるボキャブラリーがなくて一緒に眺めていた友人に「空しか見えないね」と言葉にした。

それを聞いた友人はこの刑務所で生活していた受刑者であった少年達がつづった詩集「空が青いから白をえらんだのです」のことを教えてくれた。

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空が青いから白をえらんだのです

 

そのタイトルと奈良少年刑務所の景観が忘れられなくて奈良から戻って私は近所の古本屋を探し回った。ネットだったらクリックひとつで買えるのだけど私は本屋さんや図書館、古本屋さんで探して探して本に出会えた時の瞬間が大好きなのでよほど急いで手に入れなきゃいけない時以外はそうやってじっくりかけて本に出会って買う。今回もその本を見つけるまでに2週間位かかったけど見つけた時は宝物を見つけたような気分だった。

 

詩集なので文字数は少なくて読みやすいはずなのにだいぶ時間をかけて読んだ。つづった人のことを想像してみたり自分の拒食症時代の過去を思い出したり、共感してみたり。そして読めば読むほど少年たちの心が豊かになって更生していく道のりと私が拒食症でもそこそこ生きやすくなってきた道のりが似ていると思うところがあったので書き残しておこうと思う。 

当たり前の感情を出せない。抑圧、爆発。

 

本の冒頭に

笑う、喜ぶ、怒る、苦しい、悲しい、いやだ、助けてとか日常の中にあるごく当たり前の感情を当たり前に出せず、感情は鬱屈しため込まれ抑えきれないほどの圧力になり時に不幸な犯罪を起こしてしまう事がある事、そしてその原因はその子自身の性質だけでなく家庭や学校環境、社会の環境とか色んな事が複雑に絡み合っているような事が書かれていた。

 

私が発症した拒食症に似ている。

ふとそう思った。

 

私は幼稚園の頃から両親が共働きで母も父も働くことが楽しそうで仕事の話をしている両親はイキイキしていたし、かっこ良かった。おばあちゃんにも留守番していれば「いい子ね」と誉めてもらえたし、可愛がってもらっていた。周りの友達は親に叱られたり小言を言われていたけれど、親が働いている代わりに家事も手伝ったりしていたのでそんなに怒られることもなく自由に家を使えたし良い事もあった。けど多分、本当は寂しかったのだと思う。住んでいたアパートでは他の子のお母さんたちが私のことも自分の子のように「お帰り!」と迎えてくれるけれどやっぱりみんなは自分のお母さんがお帰りと迎えてくれているのにと寂しさがあったり、家で弟と夜まで留守番していれば物音する度に幼心に泥棒に入られたんじゃないかとか怖かった。でも私の強気な性格や負けず嫌いもあったりして親にも強がっていた。そして仕事をやめてほしい訳でもなかったので寂しさを伝えたって困らせるだけだと思ったから、寂しいと親には言ったことはなかった。中学でも生徒いじめする先生が担任で、テストでいくら良い点数をとってもその先生に嫌われている限りは絶対に5は取れないという暗黙の了解があるような学校で育った。この学校社会で生き抜くために私はいかに先生に気に入られるかということをよく考えこの頃、人の目を気にすることがより強くなったし人間不信も強くなった。その代わり今の日本の社会の縮図みたいなのは十分に中学で学んだように思う。笑

そんな風に人間不信だった私は友達関係でもいわゆる仲良しグループに入って、いつか友達に裏切られる怖さとかがあった。反面、本気で世界平和が私の夢でみんなと仲よくしたいと思っていた。それだからか、各仲良しグループの核の子と仲良くなっていろんなグループに行ったりきたりしてクラスのみんなと適度な距離感で遊んでいた。けどそれって結局は人の顔色をうかがいながら浅く広くな関係だったなと今は思う。高校時代もせっかくクラスの子と仲良くなったから嫌われたくないとか人の顔色うかがっていたら自分の感情を押し殺すようになった。

中学まではその抑圧した感情の発散が1人がむしゃらに家を出て散歩したり、図書館で本を読んだり、部活だったりしたのだと思う。今思うと中学の頃の私はとりつかれたようにオフの日も部活。夏休みも3日しかとらず受験試験前も部活ばかりしていた。相当、中学でも何か抑圧された感情が溜まっていたのだと思う。それが高校では拒食症という発散の仕方に変わり自分の体を痛め付けた。

よく拒食症は家庭環境が原因とか言われてしまう。確かに家族との関係も影響はあるかもしれないが、それ以外にも私は自分の性格とか学校時代のトラウマやいろんな事が絡み合って発症したと思っている。

 

私の弟は小学生6年生から高校3年生まで学校に行かないという選択をとった。いじめは受けていなかったがいわゆる不登校だった。

よくよく学校に行かなかった理由を聞くとクラスでいじめにあっている子とも自分は仲良くしたいし授業もちゃんと聞きたい。なのに聞いてると「お前は真面目だな」と言われるしめんどくさいと。

私は弟が両親に言葉で逆らっているのを見たことがない。いわゆる反抗期もなかった弟だった。姉の私は逆らうことも多々ありよくベランダの外に出されていたのに笑

その代わり弟は、「部屋に引きこもる」という表現で自分の感情に気づいてほしかったのかもしれない。弟は小学生の頃、習っていた空手に行きたくなくて家に1つしかないトイレにこもるという作戦にでた。笑

そして部屋に引きこもり学校にもいかなくなった。当時、学校に行かないことが理解できなかった私は弟にあたってしまった。今思えば弟にとってこの何かに「こもる」ことは言語で伝えない弟の表出方法で何かあるときなんだと思う。

 

これは今働いている介護施設認知症の方たちにも重なるところがある。じーちゃんばーちゃんたちも何か不安があると人によって表出方法は違っても何かしら表出する。

いわゆる徘徊と言われてしまうものだったり暴力をふるったり、暴言を吐いたり、過食になったり。でもそれって何かの不安のサインでその不安を取り除くと穏やかに安心に生活できたりする。

社会的にも確かに犯罪はいけないことだと思う。けどそれをおこさせているのは環境のせいでもあると思う。犯罪も不登校認知症の周辺症状と言われるものも1種の何かの表現方法だと私は思う。

安心できる場

本にあった刑務所の教官の方たちは心の底から受刑者の更正を願い、彼らが少しでも生きやすくなるようになんとか力になりたいと、日常から彼らをよく見つめて人生背景も大事にして愛情を注いでいると言うようなことがかかれていたし、本の文面からも教官の愛情を感じた。

本には

ここは安全な場所、何を言っても正面から受け止めてもらえる場、心を開ける場、開いても誰も傷つけない場であることを彼らが感じて初めて信頼され先に進む。一緒に更正への道へ進める。

というようなことが書かれていた。

奈良少年刑務所では教官だけでなく刑務官や心理技官、作業技官、医療技官等、職員がそれぞれ役割を果たし受刑者が安心して人間らしさを取り戻せるように刑務所全体が大きな場として受刑者を包み込んでいる。

私は摂食障害になってからは母が寄り添ってくれた。今まで毎日夜しか一緒にいたことがないから最初はぎこちなかった。拒食症の時の私は理不尽に母にも暴言を吐いた。それなのになぜ見捨てないのか、人間不信な私は母のことも信頼していなかった。

それでも母は高校生の私に今まで一緒にいなかった分を取り戻すかのように本当にずっと付き合ってくれた。周りからは過保護と言われるかもしれないが、私たち親子には必要だった。赤ちゃんの時はだ抱っこされたけど小学生入ってからハグなんて親とはしたことなかったので拒食症真っ盛りのとき母にバグされたときはなんだかとても違和感だったけどそのハグがどんな言葉よりも安心感を与えた。

そんな中で私は母に色んな感情をぶつけ、それでも受け止めてくれ私の不安は何なのか探ってなるべく不安を取り除くことをしてくれた。この人は本気で私を守ってくれる。この人なら何を言っても受け止めてめくれるかもと少しずつ思えるようになり母のことを少しずつ信用しはじめた。そんな安心の場を手に入れてから少しずつ拒食症に取りつかれた状況から何とかしたいと主体的に思えるようになって入院中、部屋に引きこもって誰とも会話しなかったのがレクリエーションに参加してそこで無心になって物を作ったり入院しているじーちゃんばーちゃんに可愛がってもらって自分を受け止めてもらったり人とかかわる事で久しぶりに楽しいとか嬉しいとか、物を作り上げたときに褒めてもらえた達成感とか色々な感情が生まれた。

主治医も体重にこだわるのではなく、高校生活に戻る上での不安をとても丁寧に聞いてくれた。そして人の目が気になる、話すことが苦手、書くことが好きな私に対して、主治医はクラスメイトにあてた手紙を書くことを提案しくれた。

高校の担任は何度も入院中に足を運んでくれて私が安心して高校生活に戻るにはどうサポートしたらいいか本気で向き合って考えてくれた。そして私がクラスにむけて書いた手紙を読む時間を退院して初めて学校に行くときに作ってくれた。おかけで正直にクラスの子に病気の事をカミングアウトできた。クラスメイトに伝えて中にはきっと理解できない子もいたと思うけど私はそれでもよかった。静かに聴いてくれて中にはそれでも一緒に遊びたいと食から離れた遊びに誘ってくれる子や症状が作っている細かなこだわりにあわせてくれる子がいたり、逆に友達も生きづらさをカミングアウトしてくれたりいろんなことが起きた。

こんな風に拒食症から私らしさを取り戻せる道に立つ為に安心感のある空気を私の周りの人が作ってくれた。

社会性涵養プログラム

この詩集の本が作られるきっかけにもなった社会性涵養プログラムというものが奈良少年刑務所では行われている。このプログラムは

SST(ソーシャル・スキル・トレーニング)

絵画

童話と詩

という3つのプログラムからなり立っている。

SST」では心理や精神科医療の専門家と刑務所の教官が講師となり、挨拶の仕方や嫌なことを頼まれたときの失礼のない断り方など基本的なコミュニケーションスキルを仲間たちとロールプレイなどを通して学ぶ。どんな挨拶が心地よいか、みんなの力で発見していく授業となっている。自分たちで発見した最適の方法は受け身的に教え込まれたものと違い自分のものとして身につく。

 

「絵画」のプログラムでは絵画の基本を学んでから、「無心」に色を塗ったり、対象をきちんと見つめて写生する事で受刑者が言葉からも日常からも解放された無心な時間を過ごすことが出来るようになっている。

 

「童話と詩」では教官も一緒になって絵本を題材に皆の前で芝居のように演じたり、絵本や詩を声に出して読み1人1人の感想を聞いていく。そして最後の授業の時に詩を書いてきてもらう。

 有名な詩人の書いた詩を読むだけでなくすぐそばにいる友の詩の心の声に耳を澄ます時間を持つ。語り合う時間を持つ。

SSTで気持ちを伝える方法を学んで喧嘩をうまく回避する。そんなことの積み重ねで日常が「生きやすく」なったり、絵画で「無心」になって絵を描く時間があったり、詩を書いて自分と向き合いそれを発表し合う場がある。

異なる3つの要素から成り立つプログラムとプログラムを一緒に行う友とのグループワークという「場の力」

刑務所の職員の包み込んでくれる安心感のなかでさまざまな意見が交わされ互いに意見に耳を傾け合う時間がある。自分が発表しているときは残り全員が自分に耳を傾けてくれる。みんなが拍手してくれる。達成感や誇らしさ。

 

私が回復していった過程と同じようにそんなたくさんのことが絡み合って徐々に心のこわばりを溶かし人間らしさを取り戻していくと思った。

 

本の最後に受刑者の更正を成熟させるには2つの条件があることが書かれていた。

1つは彼ら自信が変わること

そして元受刑者を温かく受け入れてくれる社会があること

 まさしくそうだと感じた。

私自身、更正とはちょっと違うけれど

自分自身が今の状況から何とかしたいと思ってから劇的に変わった。

自分がどうにかしたいと主体的にならないといくら周りがよいしょと持ち上げてくれても自分のものにはならない。

そして私自身、母や主治医、クラスメイト、担任の先生、他にも色んな人が病気をカミングアウトした時にそれでも人として受けとめてくれた事がなによりも次のステップに進む糧になった。

 

病気と犯罪少し違うかもだけれどみんな自分にも起こり得る紙一重のものだと思う。

誰もが困った時に信頼して頼れる場や人を何個かもてる世の中であったらいいなと思う。

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