logbog 旅するように生きる

1993年生まれ。高校生で摂食障害発症。今も自分の心地よい生き方を模索しながら小規模多機能居宅介護施設で作業療法士してます。

東北の 復興願う 春の昼

東日本大震災から8年がたった。
今年は地震があった時間、職場の利用者さんであるおばあちゃんとこの記事のタイトルの句を含め色んな俳句を作っていた。
去年の今ごろは牡蠣にあたり1人部屋で寝たきりになっていて部屋のなかを歩くのもままならないほどで当時のことを思い返すとかそんな余裕はなかった。でも今思うと私はこの地震がなかったら今、出会っている多くの人に出会っていなかった。
そう思うと人との出会いや繋がりは本当に不思議。

2011.3.11

あの日、私は高校2年生、拒食症真っ盛りだった。
学期末だったのもあって授業は午前で終わり午後はたまたま月一回の
スクールカウンセラーが来る日でカウンセラーの人と放課後話していた。
その頃は今の状況から抜け出したいという気持ちと変化などの恐怖との葛藤中だった。

当時、神奈川の大船の近くにある高校から自宅の茅ヶ崎まで毎日歩いて帰っていた。
入院中もただでさえ増えなかった体重はほぼ食べてない上に過活動の症状で減る一方だった。

不安を人に話すといくらか勇気を出してみようと思えるようになっていたその頃の私はその日、カウンセラーの人に今日は学校から大船駅までは歩くけど大船からは電車に乗ってみると宣言してやる気満々だった。

14:46

私はちょうど駅前についたところで大船観音の真下にいた。
www.oofuna-kannon.or.jp

地震とは思えない今まで感じたことのない揺れ方だった。
当時、周りのみんなにそんなに痩せてて貧血もめまいも起きないの?と不思議がられていた。私は地震が起きたとき、地震だとは思わず「おお。これがめまいってやつかな」とのんきに思っていた。
しばらくするとそれは治まりとりあえず駅に行こうと歩いた。
駅につくとそこは電気が全くついておらず、駅ビルは真っ暗で「皆さん出てください」と警備員さんたちが叫んでいた。これはただ事じゃないとやっと気がついた。
駅の液晶画面は津波の映像が流れていた。映画のワンシーンを見ているようで、改札の前にいるひとたちはみんな「これはどこ?」「日本なの?」など混乱状態だった。

当時の私はこんな状況でも自分のことしか考えられなかった。
毎日ルーチンの中で生きてた私は一気にいつもと違う状況にたたされ不安で仕方なかった。
唯一の救いは地震により電車が止まりいつものルーチン通り家まで歩けたということ。
とにかくいつものルール通り18:00までには家につかなきゃその思いで必死に歩いた。
その日は母と弟も大船にいた。今だったら私は母と弟のもとにいったかもしれない。けれど自分のルーチンを崩さないことが第一だった私は母と弟と電話が通じないのを不安に思いながらも津波警報の鳴るなか海に近い家まで必死に歩いた。

普段と違いサラリーマンやOLさん色んな人が歩いていてなんだか寂しさは少なかった。
家につくと誰もいなかったけれど18:00に間に合った私はそそくさと自分が安心できる食べ物少量で夕飯の準備を始めていた。母は私のルールの時間に夕飯が間に合わないと18:00過ぎに必死に帰ってきた。母と弟はエレベーターに閉じ込められていたらしく私がそこに母たちの元にいっていたらルーチンは崩れてもっとパニックだったと思う。
その日の夜はずっと津波警報かなっていたけれど避難する人は見られなかった。海から近い我が家もそのまま津波警報の音を聞きつつ日常を過ごしていた。

私の社長

私の会社の今の社長はその頃、大きなリビリテーション病院で理学療法士として働いていが震災が起きてすぐ病院で働くのを辞め、現地でボランティア活動をしていた。
社長の母親は日本では大きなボランティア団体の代表で社長は息子だったのもあり現地で各ボランティア団体や物資と支援を必要としているひとを繋げるコーディネーターのような役割をしていた。

そんな中で社長は「人の欲求は無限大でいくら必要な人やモノをつないでも、課題解決はせず、つないでもつないでも終わらない。エンドレンス」「外から支援するほど、個々の横のつながりが薄くなり、住民が依存的にすらなってしまう」感覚になることがあったそうだ。終わることのない「支援」に身体・精神とも極限まで疲弊した社長の結論は、
「災害時だけでなく、普段から強固なネットワークを築かなければ、いざというときの助け合いは難しい。」ということだった。

私が今働いている会社は団地の一室にあり小規模多機能居宅介護施設という施設だけれど介護をしたくて社長はこの会社を作ったわけではない。
小規模多機能をツールとしてその地域の人がそこそこhappyに生きられることを一緒にしていきたいと思っている。

社長は地震がなかったらもしかしたらまだ病院で働いていたかもしれないし今のような仕事はしていなかったかもしれない。

私は今の社長に出会う前後で社長の仲間の色んな大人に出会った。
それは摂食障害からの回復にとても重要だった。
私の社長の周りの人間はみんな自分の夢をわくわく語ったり、自分の人生の失敗談や楽しかった話をしてくれたり色んな経験をしてる人がたくさんいて今までの私の価値観が壊された。
摂食障害の私もそのまま認めてくれた。その輪の中にいるとなんだか少し悩んでることがどうでもいいと思えるようになった。そして自然とその人たちといたいからと自分のルーチンを手放すようになっていた。症状よりわくわくが勝った。

きっと震災がなかったら私は今のような仲間には会えなかったし摂食障害の回復にも時間がかかっていたと思う。

震災はとても多くの人に傷を与えたし今も苦しんでいる人がいる。
私にははかり知りえない恐怖やトラウマを現地の人には与えたと思う。
そういう方たちに対しては失礼なのかもしれないけれど、きっと多くの人が震災を気に色々なことを考え、行動するきっかけになったと思う。
人生は紙一重の世界だと思う。明日は自分が窮地にたたされているかもしれない。
でもそのしんどさは絶対ずっとは続くわけではないと思う。

震災から8年。
1年前と比べると私はそんなに変わっていない。でも8年前と比べると大分生きやすくなっている。震災で大きな傷をおった人たちも少しずつしんどさが溶けていったらと思う。