logbog 旅するように生きる

1993年生まれ。高校生で摂食障害発症。今も自分の心地よい生き方を模索しながら小規模多機能居宅介護施設で作業療法士してます。

私の拒食症のこと

年末の朝に普段TVをつけない私がたまたまTVをつけると特番か朝から「ザ!世界仰天ニュース」で拒食症の人の事を放送していた。

私は高校入学後から「神経性無食欲症」、いわゆる「拒食症」を発症し今も拒食症とのうまいつきあい方を模索している。と言っても今はそこまで食べることへの罪悪感などはなく友人と食事やのみ会にも普通に行けるようになった。

でも当事者の私はTVで摂食障害、特に拒食症の事が放送される度、今まではとても辛かった。
ただ食べれないことだけにクローズアップされ拒食症の根本の不安さなどが描かれていないように感じてしまい見るのが辛かった。
今年は不思議とこの病気の人はみんな同じ様な言動や行動をするなと笑って見れた。

これは何か自分の中で変化かもと思い
備忘録として私の拒食症のことや
なんで今そこそこhappyになのかを
何回かにわけて振り返えって記録してこうと思う。

拒食症はダイエットのエスカレートしたものと思われてしまう事が多い。
きっかけはダイエットであっても原因は他にある。自分ではコントロール出来ない「心の病気」であることが置き去りになってしまうことが多い。
この病気は入院したら治るものではなく周囲の方とコミュニケ―ションをとる中で、対人関係に自信をつけたり、自分の気持ちを外に出して不安を解消する事で症状が軽減すると私は感じている。

日常生活で誰にでもあるストレスや、嫌な出来事等に上手く対処が出来なかったりする中で、自分に自信を無くしたり、達成感を得られない等、色々な事が積み重なり病気になると私は感じている。

私は中学までは何事も一生懸命やれば自分の思うような結果がついていたけれど高校入学後は頑張っても達成感を得られず、きっと新しい生活にも少なからずストレスを感じていたのだと思う。
でも第一志望校に合格、その高校を選んだ1番の理由である吹奏楽部に入り希望のトランペットのオーディションにも受かり、クラスの子とも仲良くしていて、学校帰りに友達と出掛けたり…
私が中学の頃に夢に描いてたようなことが実現できていて自分自身も周りからも充実した高校生活に見えていたと思う。私自身も当時は上手くいっている思い、ストレスに気づいていなかった。その頃は上手くいきすぎていて怖いとよく言っていたけれど今思うとそういい聞かせていたようにも思える。

元々、私は人に相談する事が苦手で何か上手くいきすぎていて怖い、でも何か空っぽという心に違和感を抱えていても相談せず自分の中にモヤモヤが溜まっていったのだと思う。

自分でも分からないモヤモヤが溜まっていくうちに自分に自信が無くなり、人に嫌われるのが怖くなり、周囲にどう思われているのか周囲の目が気になり、友達との会話で無理に話を合わせるようになった。そして自分を見失い、どう生活していけば良いのか分からなくなった。

そんな中なんとなくしていたダイエットだけは「食べない分だけ体重が減る」という自分がした事に対して目に見えてはっきりと結果が数字として分かり、達成感・安心感を与え、ダイエットが不安を何とかする私の手段となってしまった。

けれど段々、体重を減らしたいというより「変化」が怖くなり毎日同じように過ごす為に食事やそれ以外の生活でも自分でルールを作り、ルール通り、毎日変化のない生活でないと生活が出来なくなった。

1番ひどい時は約3か月、水だけの生活でその上、過活動の症状で毎晩1時間走っていた。周囲からは倒れない方が不思議でむしろ倒れてくれたら入院出来るのにと思われていた。その頃は何を言われても耳には入らず、楽しい事は無く、ただルールをこなすために生かされている感じだった。

家族も私の行動を理解出来ず、孤独が病気を加速させ心拍数が20まで下がり、私の知らないところで入院手続きが済み、強制的に入院(医療保護入院)となった。

入院生活は過活動が止められずひたすら廊下を歩いていた。きっと看護師さんはそんなに動いてると拘束されちゃうよと教えてくれたようにも思うけど歩くことにとりつかれていた私の耳には入っておらずこのまま動いていて入院食も食べないのは命の危険だと判断されベッド上に拘束、女子高生ながらオムツ、そして鼻に管を繋がれ経管栄養の状態、監視カメラ、廊下から覗ける窓、ベッドから動けないにもかかわらず扉に鍵のかかったまるで牢獄のような隔離室という部屋に約1ヶ月いることになった。
拘束承諾の家族のサインを見た時は家族にも裏切られたとショックだったけれど同時に「命が助かった」と心から思った。

入院前、食べること以外にもルールを作り、例えば部屋の物の位置がいつもと違うと落ち着かない時があったりいつものルーチンが一分一秒でも違うとパニックをおこしたり、自分を縛っていて自分でも苦しかった。周りは苦しいならそのルールを手放して普通に生活をすれば良い。そんなに痩せたら命が危ないと心配してくれた。
私は痩せすぎが命に危険を及ぼすのも少し体重が増えても問題は無い事も分かっていて、むしろ入院前最後の方は体重を減らしたいとは思っていなかった。ただただ1日ルーチンをこなすことが安心なだけだった。

「ルールを手放したら?」など症状に対しての声掛けは風邪の人に「咳を止めてください」や「熱を下げてください」と言ったり、花粉症の方に「くしゃみを止めて」などと言っているのと同じで、ルールを作るのは症状で自分ではどうにもコントロールができなかった。
そんなルールを手放せない自分に自信がなくなり、その不安を何とかしようと自分にまた新たなルールを作り余計に症状が悪化していった。

入院することで自分ではどうにも出来ない状況からやっと解放された。やっと止まってくれた。と心から感じた。
拘束され牢獄みたいな所にいる恐怖と
同時にほっとしたという不思議な感情だった。

拘束中は管から勝手に栄養が入るので脳に栄養が入ったことと何もできない状況になりひたすら自分はどうしてこうなってしまったんだろうとかベッドから空をしか見えない窓を眺めながら1日中考えていた。自分が拒食症である事を理解したり、幼少期の頃からの自分をひたすらに振り返る時間になった。自分の好きだったこと、嫌だったこと、一緒にいて落ち着いた人、憧れの人、苦手な人、ずっと引きずってること、楽しかったこと、家族のこと、自分の性格、色々と振り返り自分の事を知っていった。
と今思うときっとこの作業は大事なことで今の私にとっても大事な財産になった。

私ってこういう性格だったんだとかすべてが過去と繋がっている反面、なんだか新しい自分に出会ったような、命も助かり生まれ変わったような不思議な感覚だった。今の私なら何でも出来るんじゃないかと思うほど世界がキラキラして見えた。
そして振り返っているうちに生きたいとか食べたいとか本当に心から思ったし今なら何でも食べられると思った。

その頃看護師さんが定期的に巡回に来るときに今までの自分の事や何でこの病気になったのか自分なりに振り返っては伝えていた。
そして看護師さんやドクターにしきりに
「拘束をはずしてください」「管から栄養じゃなくてご飯を食べさせてください」と訴えていた。

ドクターは今まで食べなかった人が急に食べ始めると体の電解バランスが崩れ死に至ることもあるという説明に加えこの病気はそうやって言って拘束をこっちがはずしたとたんご飯を捨てたり吐いたりするんですと信じてくれなかった。
心から生きたい!と思っていて伝えればすぐに食べられると思った私にはショックだった。

何度も訴えると
まずは水を1日に一定の量、1週間飲めたら拘束をとく、管を抜く、次に体重がいくつ増えたら筆記用具を部屋で使っていいとか更にいくつ増えたら閉鎖病棟に行ける、また増えたら何時間ベッドから離れていいとか、今思えば摂食障害の特性である目に見えて結果が見える達成感や安心感を利用した行動療法と呼ばれる治療法によりなんとなく体重は少しずつ増えた。

その頃は体重がこのまま戻っていけば治るものだと思っていた。入院中は拒食症のタイプに多い、いわゆる「いい子」を発揮し退院したいがために食事を食べらるようになってからは必ず完食していた。残念ながらもともとなかなか体重が増えない私は40キロになったら退院というルールに達しなかったものの半年以上の入院は難しいと退院となった。

入院中、体重が増えるうちにこのまま体重がどんどん増えたらどうしようとか不安があったもののそれを言ったら治ってないと思われて退院できないかもと思い、誰にも相談できないまま退院となった。

私が病気になった事や弟の不登校などにより母が鬱になり私の退院と共に母も家族に内緒で入院手続きを進められ私の退院と同時に私と同じ病院に入院となった。

私は父とはもともとそんなに話すことはなかったなかで退院してすぐ相談相手もなく、自分のせいで母が鬱になった責任感などから自分が頑張らなければと必死だった。家事をしながら久々に登校と慣れない生活であった為か、いつの間にかルールは増えていき、食べられなくなりました。退院後定期的に通っていた受診では食べられなくて困っているのにドクターからは頑張って食べないとまた入院だよ。と言われるだけで食べられないから困っていることに対して何も得られるものはなく、退院後も身長165センチに対して37㎏と全然戻ってない体重は一気に減り母が退院した頃にはもう手遅れで他の病院に入院となった。

この頃の入院生活はわめいたり看護師さんに暴言を吐いたり蹴飛ばそうとしたり今思うと人生で一番恥ずかしい。
あんなに病院でいい子にしてたのに治らなかった悔しさ、またもや家族が私に内緒で入院手続きをしたショック、前の病院でのドクターへの不信感など何も信じられなかった。
誰が来ても口を聞かない、部屋から出てもいいよと言われても部屋から出なかった。
ただひたすらに大好きだった中学の頃の吹奏楽部に対してコンクールの応援として千羽鶴を折っていた。それを無心に折っている時だけは心が落ち着いた。

すっかりうつ病から回復した母はこのころ
水島広子さんの「拒食症・過食症対人関係療法で治す」と言う本に出会い、拒食症に対する考え方が変わったようで、どんなに私に無視されようとも暴言を吐かれようとも私の味方でいてくれた。
それが逆にこんなに暴言を吐いたりするのになんでこんなに味方でいてくれるのかついていてくれるのかわからず怖かった。
私にもその本を読むようにと置いていったけれどその頃の私は読む気になれずそのままにしておいた。

千羽鶴が完成した頃、一人で千羽折りきった大きな達成感からか看護師さんがすごいねと誉めてくれたときに大好きな中学の吹奏楽の話をした。
やっと笑った顔を見れたと看護師さんに言われ
そんなに笑ってなかったかと思った。
そこから少しずつ自分の部屋から出るようになりレクリエーションに参加するようになった。
入院している人はほとんどおじいちゃんおばあちゃんで高校生の私を孫のように可愛がってくれ何をしても誉めてくれた。

そうしていくうちに徐々に自信を取り戻し母に勧めてもらってそのままだった本を読むようになった。
本を読んだとたん自分の気持ちを代弁してくれてるようなことばかり書かれていてなんでもっとこの本に出会わなかったのだろうと思った。
今思うとこの本に出会ったタイミングも私は運がいいと思う。
今まで体重が増えればなおると思っていたがそれを治るとするなら治るイメージが自分の中で作れなかったし怖さしかなかった。
だけどその本には治る=決して体重が増えることではないこと、食べないとかの症状を無くすことではなく症状がなくても現実世界をそれなりにやっていけるようになることと書かれていた。
食べられないとか食べるとか表面的なことじゃなくてもっと根本の辛さを理解してくれている天使のように思えた。

その本には症状は松葉杖のようなもので例えば足を骨折した時松葉杖がないと歩けない。骨折がなおってないのに松葉杖だけ奪い取ろうとしても必死に抵抗に合うのは当然だと予想できると書かれていた。そして私が一回目に入院していたような無理やり症状をなくすような治療がかえって悪影響になることがあることや今何を感じていて何に不安でその不安をできるだけ減らして自分のペースで安心できる場になったときに自然に症状は手放せると言うようなことが書いてあった。

その本には拒食症を治すというよりこれからの私の人生をもっと生きやすくするために大切なことが沢山書かれていた。幸い、二回目の入院中のドクターは沢山話を聞いてくれる先生で学校に戻るのに何が不安か話を聞いてくれた。
私は皆が集まる場にはご飯がいつもあること、そのなかで食べないことでのり悪いとか思われるのが嫌なこと、他にも人の目がとても気になることを伝えたりするなかでみんなに先にこの病気のことや自分の事をカミングアウトできたら人の目を気にする不安が減るかもと答えをだし退院して登校初日に担任の先生に時間をつくってもらいクラスの前で自分の病気のこと、人の目が気になることを素直に伝えた。

伝えると思っているより皆は気にしてなかったり逆にどうしたら一緒に遊べるのか考えてくれた友達も出てきたりした。

それ以来、専門学校に入った時もその他、何か大事な人と関わる時、病気の事をカミングアウトしてきた。勿論、全員が理解してくれた訳ではないし、理解出来ないと失った友達もいた。でも母、高校の担任、クラスメイト、幼馴染、専門学校の先生など私のルールを守りながら安心して学校生活、日常生活、遊びを出来る環境を整えてくれありのままの私を受け止めてくれる人が沢山できた。ほんとに私は周りの人に恵まれていると思う。

こんな風に周りが私の居心地のいい環境を作ってくれてそこそこhappyな生活を今送っている。

書いているうちにこの終着点がわからなくなったのでひとまず終わりにしようと思う。